藤堂高虎(とうどうたかとら)

登録日:2018年8月3日

藤堂高虎公像

 

藤堂高虎像(お城公園内)

 

藤堂高虎は、弘治2(1556)年近江国犬上郡藤堂村(のち在士村・現在の滋賀県犬上郡甲良町)に生まれました。元亀元(1570)年、15歳の時、浅井氏に仕え姉川の戦いで初陣し、その後豊臣秀吉の弟秀長に仕え各地を転戦し、文禄元(1592)年に紀伊国粉河(和歌山県那賀郡粉河町)で1万石を与えられはじめて大名となりました。その後、秀吉の下で2度の朝鮮出兵に参加し、その間伊予国板島(現在の愛媛県宇和島市)7万石をもらい、秀吉直属の大名となりました。
秀吉の死後は徳川家康と親しくし、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは大いに奮戦し、伊予国今治(愛媛県今治市)20万石の大名までになりました。築城の名手といわれた高虎は、家康の命により膳所城・丹波亀山城・江戸城・丹波篠山城など数多くの築城や修築を行いました。そして家康の信頼の厚い高虎は53才の時、慶長13(1608)年に伊予今治から伊賀国・伊勢国に転封となって津・伊賀上野城主となり、外様大名ながら大坂方をにらむ要衝の地におかれました。大坂冬の陣、夏の陣では先鋒として戦い、元和2(1616)年に27万3千石余となり、家康の死後は日光東照宮の造営にあたり、元和3(1617)年には32万3千石余の大名となり、全国の100分の1に当たる藩領を手に入れました。戦国を駆け抜けて立身出世した高虎は、老後にあっても自国にいる暇もなく東奔西走していましたが、さすがに病気には勝てず寛永7(1630)年10月5日、江戸の藤堂藩邸でその生涯を終えました。
 

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