登録日:2023年5月16日
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白山町藤地内から布引峠へと続く県道29号を進むと、かつての元取小学校跡に建てられた元取公民館に至ります。公民館の道を挟んだ向かいには元取グリーン交流センターがあり、その裏手は城立地区の共同墓地となっています。
墓地の入口付近には、戦没者の供養碑などと並んで、いっせきいちじこんごうはんにゃぼと刻まれた石碑があります。この石碑は、かつて近くの民家の庭にあった なかやましたきょうづかのもので、県道改良事業に伴い道路の敷地となったため、平成17年に発掘調査が実施されたのち、同19年に現在の場所に移されました。
発掘調査では、石碑の下から陶器の壺が発見されました。高さ43.4センチメートル、最大径36.5センチメートルの信楽焼とみられ、口縁の一部が欠けているほかは、ほぼ完全な形でした。壺の中には墨で漢字が書かれた小石が納められていました。石は、平均2.1センチメートル、最大でも7.6センチメートルの小さなもので、全体で5,405点に及びます。一石に二文字が書かれたものが3点ありましたが、その他のものは一石に一字が書かれており、筆跡もまちまちであることから、複数の人間が参加して文字を石に書き写し、壺に収めて埋納したものと考えられます。石碑に こんごうはんにゃぼと刻まれていることから、これらの石は仏教の経典である こんごうはんにゃはらみたきょうの文字を書き写したものと思われます。
このような小石に経文の文字を数文字ずつ書いた石はきょうせきといい、これらを埋納したものは、いっせきいちじきょうづか や、れきせききょうづかと呼ばれ、功徳を積むことや供養することを目的に江戸時代に盛んに作られました。なかやましたきょうづかも、他の出土遺物や石碑の銘文などから、江戸時代のものと考えられます。
なかやましたきょうづかのきょうせきは、壺から取り出されて調査された後、城立共同墓地の中に再度埋納されました。壺はひび割れなどが見られたことから、新しいものに交換され、元の壺は、白山郷土資料館で展示されています。
城立共同墓地には他にも いっせきいちじきょうづかがあり、市内には寺院などを中心に、なかやましたきょうづかと同じような近世のきょうづかが残されている例があります。このような身近に残る石造物から、地域の歴史に思いをはせてみてはいかがでしょうか。
1987年、安濃町草生生まれ。2021年から同町曽根で進学塾マナを経営。神戸でウエディングプランナーをしていたことも。こだわりのネイルは友人作でお気に入り。
安濃町曽根にあるコインランドリーを併設した建物の奥には、世界地図や英単語が貼られた壁に囲まれた8畳ほどの部屋がある。そこには小さな木製の机と椅子が並ぶ。夜になると明かりがともり、地域の子どもたちが懸命に勉強する姿が見られるこの場所は、紀平さんが営む学習塾だ。
紀平さんは県外で働いたあと、地元である津市に戻り塾を創業した。ここを生徒が卒業した後も、いつでも帰って来られる場所にしたいと、厳しくも愛のある指導を目指す。生徒を子ども扱いせず、一人の人間としてとことん向き合うのが信条だ。塾が終わったあと、生徒の悩みや将来の相談に乗ることも多い。
(きひらさんのコメント)今の私があるのは、小学生のときに通っていた塾の先生の影響が大きいです。厳しさと愛情を兼ね備えた先生から人間として大切なことを学びました。塾を卒業してからもよく相談に乗ってもらっていましたね(コメントおわり)
最近は、不登校児童の学習サポートにも力を注いでいるという。
(きひらさんのコメント)将来的には学校に行きたくても行けなくなった子どもたちの居場所を作りたいです。この地域には知識や人柄の温かさがあふれる高齢者も多いので、そんな地域の人たちと一緒になって取り組めたらいいなと思っています(コメントおわり)