鋳物師辻家と清韓長老

登録日:2018年8月3日


観音寺の梵鐘の写真
元和3年銘のある観音寺の梵鐘
擬宝珠の写真
旧岩田橋にあった擬宝珠

 

津に釜屋町という町があった。安濃川に沿った町で、今は北丸之内の一部になっているが、昔ここに鋳物師辻家の屋敷があった。

辻家の祖は越後守家種で、天文10(1541)年に生まれ、天正年間(1573~1591年)にはすでに著名な鋳物師であったという。慶長17(1612)年、豊臣秀頼が地震で崩壊した京都方広寺の再建をするとき、梵鐘(ぼん)鋳造の棟梁(とうりょう)となっている。高さ5.5メートル、口径2.8メートル、重さ64トンの大梵鐘で、この中に「国家安康、君臣豊楽」の銘文があり、これが徳川家を呪うものであるとして大阪冬の陣を引き起こし、ひいては豊臣家滅亡の原因ともなった。

そのような名工がどうして津の町に来たのかははっきりしないが、津藩主藤堂高虎との関係があったのではないかといわれている。

津に来てからの彼の作品には、元和3(1617)年の銘のある観音寺の梵鐘がある。家種は元和元(1615)年に亡くなっているので、彼の最晩年の作品ということになる。

家種には、重種・吉種の二人の息子があり、後を継いだのは重種で、吉種は分家し但馬家を興している。二人とも父に劣らぬ名手で、日光東照宮の家光廟(びょう)前に寄進された燈籠(とうろう)に、京都や近江(現在の滋賀県)の鋳物師とともに重種や吉種の作品がみられる。彼らの作品には、観音寺銅燈籠や岩田橋の擬宝珠(重種・吉種)、専修寺の梵鐘(重種)など江戸時代初期の重要なものがある。

辻家ではその後も陳種、種茂と続き、専修寺銅燈籠や浄明院梵鐘(陳種)、加良比乃神社常夜燈、本徳寺梵鐘(種茂)などの名作を残したが、その後辻家は衰え、目立った作品も見られなくなった。ところで、方広寺の梵鐘の銘文を秀頼に頼まれて選んだのが京都南禅寺の清韓長老で、彼の墓が上宮寺にある。どうして南禅寺の長老の墓が津にあるかということであるが、それには秘められた歴史があるのではないか。

家康に咎(とが)められた清韓は、片桐且元とともに、家康を害する気はなかったと弁明したが聞き入れられず、捕らえられ駿府(現在の静岡市)へ送られた。家康にとって、絶好の機会だったわけである。後に許されて来津したと伝えられるが、単に彼の出身が奄芸郡(現在の安芸郡)の三宅であるというだけでなく、彼もまた藤堂高虎との縁があったからではないだろうか。その高虎は、家康から絶大の信頼を得ていた。

あれやこれや考えていると、歴史の表に出てこないさまざまな動きが見えてくるようだ。

辻家の墓の写真 清韓長老の墓の写真
辻家の墓 上宮寺にある清韓長老の墓

 


このページに関するお問い合わせ先
生涯学習課 文化財担当
電話番号:059-229-3251
ファクス:059-229-3257