「広報津」第395号(音声読み上げ)津市人権教育広報 あけぼの 第33号

登録日:2022年7月16日


このページは、音声読み上げソフトウェアに対応するため、語句のなかで一部ひらがなを使用しています。


折り込み紙2

津市人権教育広報 あけぼの 第33号

令和4年7月16日発行
教委人権教育課 電話番号229-3253 ファクス229-3017

戦争の事実を共に受け止めて

平成21年 平和への誓いより抜粋。

これから先、世界が平和になるために、私たちができることは何でしょうか。

それは、原爆や戦争、世界の国々や歴史について学ぶこと、

けんかやいじめを見過ごさないこと、

大好きな絵や音楽やいろいろな国の言葉で、世界の人たちに思いを伝えること。

今の私たちにできることは、小さな一歩かもしれません。

けれど、私たちは、決してあきらめません。

話し合いで争いを解決する、本当の勇気を持つために、

抜粋、終わり。

これは、毎年8月6日に行われている広島平和記念式典の平和への誓いで述べられた、小学6年生の言葉です。かつての原爆や戦争による惨禍を、今を生きる自分たちにつながる問題として考え、世界に向けて平和へのメッセージを伝えています。

今年2月、ロシアがウクライナに侵攻しました。ミサイルによって破壊されていく町や、攻撃におびえ避難する人々の姿が何度も報じられました。ロシアやウクライナの人だけでなく、世界中の人々が衝撃を受け、心を痛めています。しかし、早く平和になってほしいと願っている私たちも、心のどこかで、遠く離れたところで起きている、私たちとは直接関係のない出来事と思ってしまってはいないでしょうか。

今回のあけぼのでは、命が奪われ、人権が侵されるという戦争の事実を共に受け止めて、今を生きる私たちの暮らしや社会を見つめ直し、これからどのような自分でありたいか、どのような社会を築いていきたいのかを、共に考えていきたいと思います。

人権コラム 戦争と平和から人権を考える

津市では、非核三原則を遵守し核兵器の廃絶と軍備の縮小を全世界に強く訴えるとともに、世界の恒久平和と人類の安全を願い、非核・平和都市を宣言しています。戦争の悲惨さを認識し、平和の尊さを次世代に語り継ぎ、伝えていくことを目的として、毎年7月15日から8月15日までを平和を考える月間として定めています。

この期間中には、平和を考える市民のつどいで戦争に関する映画の上映をするとともに、市民の皆さんから募集した折り鶴を千羽鶴として展示し、展示後は広島平和記念公園内の原爆の子の像に捧げます。他にも原爆パネル展や津平和のための戦争展、平和のための音楽会を開催します。

また、香良洲歴史資料館では、市内の戦災被害、戦時下の市民生活に関わる資料などを展示しています。風化しつつある戦争の惨禍を次世代に伝え継ぐとともに、命の尊さや平和の大切さを考えることができる場であり、東海地方でも数少ない戦争と平和をテーマとした施設です。

これらの戦争の記憶は過去の出来事で収まりません。私たちは誰もが皆幸せに生きていく権利を持っています。しかし、世界では、自分とは異なる価値観や考えの人を排除したり排斥したりすることによる差別や偏見が、紛争にまで至ってしまっている現実があります。私たち一人一人が差別や偏見について、気付き、考え、対話を通して相手を理解しようとすることが、平和な社会を構築していく第一歩ではないでしょうか。

津市ではウクライナへの人道支援を目的として、市内12カ所に募金箱を設置しています。寄せられた募金は、国連UNHCR協会へ送られます。

戦時下を生きた人から学び、つなぐ

戦後77年が経ち、その実体験を語ることのできる人も年々少なくなっています。現代に生きる私たちが、戦時下を生きた人たちから学び、そしてその学んだこと、感じたことを、次の世代につなげていくことが大切だと思います。

古市順子さんが体験した空襲

昭和20年、私は女学校の3年生(中学3年生)でした。私の家は西町(養正小学校の東側)にありました。戦争が激しくなって、母ときょうだいは大里に疎開をしていたので、私と父だけが西町に残っていました。

当時、私たち女学生は学徒動員により、今の津球場の辺りにあった工場で、飛行機から爆弾を落とすための部品を作っていました。大きな空襲のあった6月26日も工場で働いていた私たちは、11時ごろに空襲があるかもしれないと聞き、4列に整列して阿漕浦海岸まで逃げました。工場にも防空壕がありましたが、そこに入れるのは工場長や軍人さんだけだったからです。松林の中に身を隠しながら空を見上げると、B29が飛んできて工場の方に爆弾を落としていくのが見えました。私たちは激しい爆撃の音に手で耳を押さえながら、ずっと空を見上げていました。空襲が終わって工場に戻ると、工場はめちゃくちゃになっていました。防空壕も吹き飛び、そこに逃げ込んだ人たちはみんな亡くなっていました。

その後も何度か空襲がありました。家の裏手の玉置町(養正小学校付近)も爆弾でめちゃくちゃになりました。でも、そのときのことは恐ろしかったということしか思い出せません。焼夷弾空襲のあった7月28日は、近所の人から、今晩は大きな空襲が来るかもしれないと言われ、大里まで避難しました。夜になり空襲警報で目が覚めると、自宅がある方の空が真っ赤になっていました。数日して戻ったときには、塔世橋から向こうは一面焼け野原で、私の家も全部なくなっていました。

戦争が終わって津の町もすっかり変わりました。でも、今の若い人たちにはこの町で恐ろしい戦争があったことを忘れずにいてほしいと思っています。

亀井カノンさんが体験した空襲

昭和20年、私は栗真(今の三重大学の辺り)に住んでいました。父は前の年に出征して、家には母と私たちきょうだいしかいませんでした。当時、出征する兵隊さんを見送るのは私たち子どもの役目で、学校で教えられた通り大きく元気な声で兵隊さんを見送ったのを覚えています。

私は国民学校の2年生(小学2年生)でしたが、学校にいるときに警戒警報が鳴ると授業は中断して、私たちは家まで走って防空壕に逃げ込みました。かぼちゃ畑の真ん中にいるとき、戦闘機が真っすぐこちらに向かってきたこともありました。怖くて立ちすくんでいる私を、母が覆いかぶさるようにしてかばってくれたのを覚えています。

7月28日、夜中の23時過ぎに母の、坊や、起きなさい、と絶叫する声で目が覚めました。東側の窓からは近くの工場が真っ赤になって燃えているのが見えました。列車に乗るため、津駅まで走りました。熱風で火の粉が舞い、B29が空を埋め尽くし、焼夷弾が火を噴きながら落ちてくる様子は今でも記憶に蘇ってきます。ようやく乗った列車は満員でした。阿漕駅では、燃え上がる駅舎に列車が停車できず、待っていた人たちは徐行する列車に飛び乗りました。

終戦直後、西古河の大イチョウの前から見た、焼け野原になった津の町は忘れられません。父は戦地から戻りましたが、体は弱り切っていて、寝たきりになり、間もなく亡くなりました。私が見送った兵隊さんたちも、ほとんどが戦地で亡くなったことを知りました。今でも、私たちがあの人たちを戦地に送ってしまったのだという思いがあります。私は、あの戦争の中を生きた一人として、戦争反対の思いを込めて、自分の体験を語っていきたいと思っています。

松森久志さんが体験した戦争

昭和19年、近衛兵として皇居を守備するため、東京に行くことになりました。誇らしさと共に、従軍することへの怖さもありましたが、近衛兵に選抜されたことで地元である白山町家城の人たちや、何より父親が非常に喜んでくれたことをよく覚えています。

従軍中には、死に直面したことが何度かありました。赤坂で起きた暴動の鎮圧に向かったとき、米軍機の急降下爆撃を浴びました。自隊の上官が、退避、と命じてくれたためなんとか助かりましたが、合流していた友軍の部隊は、早駆け、と命じられて進軍し、爆弾を受けてほぼ全滅してしまいました。

東京大空襲の時は皇居周辺にも多くの焼夷弾が降り注ぎ、翌日には不発弾の処理を命じられました。さすがにそれは、と躊躇していると、隣にいた同期の上等兵が自分が行きますと名乗り出て、不発弾を抱えて防火水槽に飛び込みましたが、その瞬間爆発して亡くなってしまいました。同期が自分の身代わりになったのでは、と何とも言えない気持ちになりました。

この時代はどのようなことであっても、上官から出た命令に対して、できません、嫌です、ということは言えませんでした。どうしてもできないことは黙っているしかなかったのです。

昭和20年8月15日に戦争は終わりましたが、GHQによる戦後処理が始まり、いつ自分が呼ばれるかと生きた心地がしませんでした。8月15日未明のきゅうじょう事件に、事情がよく分からないまま命令を受け、関わってしまったからです。9月になって帰郷命令が出て、ようやく戦争が終わったという実感が持てました。

戦後は、まず何よりも、自分の身代わりにさせてしまった、と思っていた同期の上等兵のお墓参りのために九州へ行きました。お母さんと面会することができ、その時の状況を伝え、わびたのですが、近衛兵として、名誉の戦死を遂げた息子が誇らしい、と言われました。75年も前のことですが、この時の様子は鮮明に覚えています。今となってはそのお母さんの本当の思いを知るすべはありません。

帰郷や戦友の墓参りの際に東京をはじめさまざまな街を見ましたが、大きな都市はどこも焼け野原になっていました。情報が統制されていて、全国的にここまで被害を受けていたとは思っていませんでした。

戦時下を生きた世代として、次の世代へ伝えたいことがあります。

戦争はどんな理由があっても結局は命の奪い合いです。意見が分かれることもありますが、戦争という手段を取ることは絶対に避けなければなりません。また、あの時代は自分も含めた多くの人々は思っていることを口にすることができませんでした。今はほとんど何でも言える社会になってきていますが、だからこそよく考えてものを言わなければならないと思っています。

長い間土地に関する仕事をしてきました。昔は、貴重な水をみんなで分け合う、そのためにどうしたらいいか、という方向で話ができたのですが、いつからか自分の利益だけでものを言う人が増えてきたと感じています。人間は時に相手の言葉や言い方によってぶつかり合うこともあります。その際に自分の主張ばかりではなく相手の言葉にも耳を傾け、歩み寄っていく姿勢が必要です。そのような姿勢が個人においては争いを遠ざけ、国家間においては戦争を回避していくことにつながる、と私は思っています。

補足

きゅうじょう事件とは、終戦を国民に告げる玉音放送を巡って近衛師団司令部で起こった争い。

シリーズ 人・ひと

今回は、津平和のための戦争展を通して戦争を語りつなぐ活動をおこなっている、同戦争展実行委員会事務局長の亀井浩さんに、実行委員会の活動内容や、活動を通して戦争と平和について語りつなぎたい思いをお聞きしました。

津平和のための戦争展(以下戦争展)や実行委員会の活動について教えてください

実行委員会は1988年4月に市民の有志により発足し、戦争展を中心に市民に平和の大切さを訴える事業をおこなってきました。戦争展は毎年夏に津リージョンプラザで開催(津市共催)しているもので、今年で34回目の開催となります。他に市内の戦争遺跡フィールドワークや、小中学校の平和学習の出前講座などの活動をしています。

戦争展ではどのような展示をしていますか

戦争展では、焼け野原になった津市街のパノラマ写真、戦災地図、焼夷弾の残骸など津の空襲を伝える資料、国民学校の写真や教科書、生活用品など、戦時中の学校や生活に関わる資料を展示しています。

昨年度は、平和を願い語りつなぐ展示として、久居農林高校放送部制作による映像作品、静かなる語り部(2021年)、つなぐ 記憶のバトン(2018年)を会場内で上映しました。

また、会場内に毎年、津市戦災爆死者名簿を掲示しています。津市は空襲により戸籍まで焼失したため、戦災犠牲者の詳細が分かっていません。この名簿は、実行委員会に先立つ市民有志の会が地道に情報を集め、私たちが受け継いできているもので、現在1,400を超える人々が記載されています。

毎年会場で、この名簿をじっとご覧になる人や、そこに載っている名前の人について、ご自身の戦争体験を交えながら語ってくださる人がいます。津の空襲では約2,500人が犠牲になったと推定されますが、その一人一人に家族や暮らしがあったはずです。展示を通じて、当時を生き、戦争により奪われた数々の命や、残され戦後を生きてきた市民の思いを想像していただけたらと思っています。

亀井さんが戦争展や実行委員会の活動で伝えていきたいことを教えてください

戦後75年以上が経ち、自分自身の戦争体験を語ることができる世代は少なくなりました。

今、私は、戦争と平和を語りつなぎたいと強く思っています。戦争では、語ることができないほど過酷な現実や、記録されない悲惨な状況があったと思います。戦争の本質とは、そのように無残でむごいものではないでしょうか。だからこそ、私たちは、語られることのない、カメラで写されることのない、戦争の実相にまで思いを巡らし、今を生きる私たちの言葉で戦争反対の思いを語りつないでいきたいのです。

今年の戦争展のテーマは、きりすてられたいのち、きりすてられるいのち、です。奪われていい命なんてないはずなのに、戦争では多くの命や暮らしが犠牲にされてきました。津の町に起こった空襲や、今まさに世界各地で起こっている紛争について語り合うことで、誰かが犠牲になることを見逃してしまっている自分や、誰かを切り捨ててしまっている自分がいないか、皆さんと一緒に考えていきたいと思っています。

第34回 津平和のための戦争展 きりすてられたいのち、きりすてられるいのち

とき

8月6日土曜日・7日日曜日9時30分から16時30分まで

ところ

津リージョンプラザ3階生活文化情報センター(展示室)


前のページへ

次のページへ

第395号の目次へ


このページに関するお問い合わせ先
政策財務部 広報課
電話番号:059-229-3111
ファクス:059-229-3339
メールアドレス:229-3111@city.tsu.lg.jp