阿漕平治の伝説と史跡

登録日:2023年12月14日


 

 津市柳山津興の住宅街の中に、「阿漕塚」と刻まれた小振りの石碑があります。この塚にまつわるのが、阿漕平治の伝説です。
 その昔、阿漕が浦に平治という親思いの漁夫がいました。その母が病にかかり、日に日に衰えていったので、なんとかならないかと困り果てていると、阿漕が浦にいる「やがら」という魚を食べさせれば、回復するという事を耳にするのです。しかし、困ったことに阿漕が浦は禁漁の海でした。悩んだあげく、ついに海に網を入れ「やがら」を母親に食べさせると、元気になっていきましたが、ある嵐の夜、舟に忘れた笠が証拠になって捕らえられてしまい、簀巻きにして海に沈められてしまいました。この平治の怨念を鎮めるために建てられたのが「阿漕塚」です。

akogizuka
阿漕塚(津市指定史跡) 
 

shibaibanduke
芝居番付
(江戸時代、一身田芝居小屋にて上演)
「勢州阿漕浦~浜辺より平治住家の段~」

 
 この伝説は、『源平盛衰記』にある「伊勢の海 あこきか浦に 引くあみも たひ重れは あらはれにける」という和歌に基づきますが、平治の名前は出てきません。室町時代になり、能楽の謡曲「阿漕」は、伊勢参宮の僧が阿漕浦で老漁夫に会い、阿漕という漁夫が密漁の果て、沖に沈められた物語ですが、平治や母の病、やがらも語られておらず、伝説の基礎が備わっているものの、孝子伝説とはなっていません。
 
 

 江戸時代になると、浄瑠璃や歌舞伎などに取り上げられ、そのなかで様々に改編、脚色、創作され、芝居に仕組んで「阿漕の平治」を実在の人物のように扱ったことから、孝子伝説に結びついていきました。その後、孝子平治や平治忘れ笠の物語が様々な形で普及していき、今日に至っています。
 阿漕塚が築かれた年代は定かではありませんが、その位置や由来などは、江戸時代初期、明暦2年(1656)の『勢陽雑記』には記されていて、現在の石碑は、正面に「阿漕塚」、右面に「天明二壬寅年(1782)七月十六日建之」、左面に「世話人 岩田町 清八 綿内町 吉良兵衛 弓之町 新五良」と刻まれています。伝説、伝承とはいうものの、これが建てられた旧暦7月16日(今は8月16日)には、現在も平治を憐れみ、その供養が続けられています。

yakusyamitsuke
役者見立 東海道五十三駅 一陽斎豊国画
~東海道五拾三次之内土山 阿漕平治~

阿漕塚の地図(外部リンク)

 


このページに関するお問い合わせ先
教育委員会事務局 教育総務部 生涯学習課
電話番号:059-229-3248
ファクス:059-229-5150
メールアドレス:229-3248@city.tsu.lg.jp