「広報津」平成23年2月1日/第123号(音声読み上げ) 歴史散歩(57)

登録日:2016年2月25日

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裏表紙

歴史散歩(57)

「ちゅうけんハチ公」の飼い主としても有名
上野英三郎[うえのひでさぶろう]博士

 人波の途切れることのない東京渋谷駅前に立つ「ちゅうけんハチ公」の銅像。
 ハチの飼主であり、東京帝国大学教授で農業土木・工学を専門として全国の耕地整理の指導的役割を果たした上野ひで三郎博士は、久居元町に生まれた三重県出身の人物です。有名なハチの物語の一方で、博士の専門分野の業績はあまり知られていませんのであらためてたどってみましょう。
 上野博士は明治4年(1871年)生まれ。明治28年(1895年)に東京帝国大学農科大学農学科を卒業し、その後大学院に学び、明治33年(1900年)からは大学で講義をしています。ちょうどこのころ、日本では「耕地整理法」が制定され、大規模な耕地整理(現在のほ場整備)が行われようとした時代です。当時その技術指導のできる農業土木の技術者がほとんどいなかった時代に、上野博士はその第一人者として活躍しました。
 彼の耕地整理に対する理論は、それまでの伝統的な区画である南北方向を意識した一辺60間(108メートル)の正方形の区画を批判し、土地の傾斜や地形に合せて「最小の労力で最大の収量を確保する」ことに重点を置いた近代的なものでした。
 個々の水田は、いずれも用水路と側道、排水路に接して独立した耕作を可能とするものです。これは、工業の発展によっていずれ労働力が農村から都市に移動し、より少ない人数で農業生産を担わなければいけない時代の訪れを見越したものであり、動力(牛馬・機械)を効率的に使える大規模区画を整備する先見性のあるものでした。
 しかし、彼の区画理論(短辺30メートル掛ける長辺100メートル、面積30アールを基本とする)の実現は当時の土地制度では困難で、理論が示されてから60年以上後の昭和30年代に「標準区画」が採用されてようやく実現したといえます。現在、全国各地のほ場区画の基礎となっているのは上野博士の理論を基にしたものであり、わが国の「農業土木学の父」と評価されるべき業績を残しています。
 彼は、大学での講義ノートをまとめた『耕地整理講義』を著し、一方で農商務省兼任技師として
全国各地の技術指導を通じて多くの技術者を育てました。その数は3000人ともいわれます。
 博士は、53歳の時に大学での講義中に倒れて急逝します。帰らぬ主人を待ちわびるハチの物語が有名となるのは博士の亡くなった7年後、渋谷駅前のハチ公像の建立は9年後のことです。
 現在、市内では法専寺(久居元町)の墓碑と小戸木神社(久居小戸木町)の記念碑の篆額[てんがく]文字に、そのゆかりを感じることができますが、全国各地のほ場整備を終えた水田を見る時、そこには博士の業績が見事に刻まれていて、科学者として、また技術者として果たした役割の大きさを知ることができます。


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