「広報津」平成24年3月1日/第149号(音声読み上げ) 歴史散歩(70)

登録日:2016年2月25日

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歴史散歩(70)

江戸時代のおひなさま

 桃の節句(ひな祭り)は、女の子の健やかな成長を願う身近な季節行事として、私たちの生活の中で親しまれていますが、その起源は千年以上前の平安時代中期までさかのぼります。
 古来、日本では「五節供[せっく]」と呼ばれる五つの季節行事〔人日[じんじつ](1月7日)・上巳[じょうし](3月3日)・端午(5月5日)・七夕(7月7日)・重陽[ちょうよう](9月9日)〕が行われてきました。人日の他は、月日の奇数の重なる日を選び、季節にちなんだ植物を食べ邪気をはらう行事が行われてきました。
 これらは、中国(唐)の暦で季節の変わり目に当たります。3月は、最初の巳の日を「上巳の節句」として季節の食物を供え、人形を流して無病息災を願いました。桃の節句と呼ばれるのも、桃には邪気をはらう魔よけの力が宿ると信じられていたことによります。
 こうした災厄をはらうことを目的とした行事に、貴族社会の女子の遊びとしての「ひいな(人形)遊び」が重なり合い、長い年月を経て今のひな祭りにつながります。
 現在のような形のひな人形を飾るようになったのは、江戸時代に入ってからといわれています。最初は一対の人形であったものが、時代を経るにつれて、はやしや官女、さらには道具類が加えられ、御殿や段飾りなども整えられて徐々に豪華になりました。
 今回紹介するおひなさまは、鈴鹿市江島町の伊勢街道沿いにある旧家の所蔵品で、15年ほど前に津市に寄贈されたものです。
 人形を納める木箱のふたに「嘉永三戌歳 弥生吉辰」と書かれており、幕末に近い江戸時代後期の嘉永3年(1850年)に作られたことが分かります。婚礼道具の一つであったようで、今では4段のひな壇[だん]飾りになっていますが、当初は平置きか2段ほどの壇飾りであったと考えられます。
 このひな飾りは、建物の中に内裏びなを置いて都の御所に見立てています。江戸を中心に発展した段飾りびなに対し、上方で主流であった御殿飾りびなと呼ばれるものです。現在の段飾りびなのほとんどが、向かって左側に男びな、右側に女びなが置かれるのに対し、建物の中にある人形の配置は逆になっています。これは、御所正殿の天皇皇后の位置関係そのままで、建物の下には桜・橘[たちばな]の二樹も飾られるなど、御所の植栽の位置も反映しています。
 この御殿飾りびなは、昭和30年代まで西日本一帯で見られましたが、その後は段飾りびなの全国的な普及により、その姿を消してしまいました。
 貴重な歴史資料でもあるこの御殿飾りびなは、大門大通り商店街で毎年開かれているひな祭りイベントで、今年も3月3日までご覧いただけます。数多くのひな人形が一堂に集う商店街のショーウインドーの中で、やや趣の異なる古風なおひなさま。みやびな都のひな祭りの雰囲気をお楽しみください。

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