「広報津」平成25年7月16日/第182号(音声読み上げ) 歴史散歩(86)

登録日:2016年2月25日

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歴史散歩(86)

宮山城跡と戸木城攻め

 久居地域の戸木町には、旧街道沿いを中心とした集落が東西に広がっています。集落の北側、国道165号を挟んだ山裾には敏太[とした]神社があり、この神社の裏山に戦国時代に築かれた宮山城跡があります。
 城の中心となる曲輪[くるわ]は山の最も高い所に位置し、南北約20メートル、東西約10メートルの規模で、周囲には現在も高さ2メートルから4メートルの土塁が取り巻いています。その周辺を防御する空堀や土塁も屈曲が多く、簡単には城の中心にたどり着けないように工夫されています。
 この城は、南方約600メートルに位置する戸木城(市指定史跡)とともに、天文年間(1532年から1554年)に木造具政によって築かれたとされています。木造氏は北畠氏の一族で、宮山城の南東約4.5キロメートルにある木造城(市指定史跡)を本拠としていました。
 天正12年(1584年)、木造氏は織田信雄軍の一員として、羽柴秀吉軍の蒲生氏郷と戦うことになります。その際、宮山城は木造氏にとって対蒲生軍の防御拠点となっていましたが、落城し、逆に蒲生軍による戸木城攻めの拠点になったとされます。現在見られる屈曲した空堀や土塁は、この時、蒲生軍によって造られたと考えられています。
 また、宮山城の北東約500メートルにある城山城も、宮山城とよく似た構造をしています。さらに、青葉台の住宅地にある上野遺跡からも、16世紀後半のものと考えられる大規模な堀や土塁などが見つかりました。いずれも蒲生軍の戸木城攻めの拠点の一つであったと考えられています。
 このように戸木の地には、戦国時代、戦に明け暮れたころの城跡が残っています。城跡を訪れて地域の歴史を感じてみてはいかがでしょうか。

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