「広報津」平成25年10月16日/第188号(音声読み上げ) 歴史散歩(89)

登録日:2016年2月25日

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歴史散歩(89)

長野宿

 津の市街地から国道163号を伊賀市に向かって進むと、長野峠の手前に集落が広がります。長野川の左岸に広がるこの集落は、美里町北 長野の町並みで、かつてここに伊賀街道の宿場の一つ、長野宿がありました。
 長野宿が置かれていた伊賀街道は、古くは京や大和と伊勢を結ぶ、全長約12里(約50キロメートル)の地方の参宮道でした。そして、慶長13年(1608年)に、藤堂高虎が伊勢と伊賀二国の大名として転封され、津に本城、伊賀に支城を置くと、それ以降は、両国を結ぶ重要な官道として整備されていきました。
 また、伊賀街道は、産業道路の役割も担っていました。津方面からは海産物や塩が、伊賀方面からは種油や綿が運ばれ、その一部は船で江戸まで運ばれました。人や物資の行き交う伊賀街道は、大変にぎやかな街道だったことが想像できます。
 現在、北長野の町の中ほどにある北長野休養福祉施設の駐車場には、江戸時代末期から明治時代初期にかけての長野宿の町並みが描かれた、大きな案内板が立てられています。これは、地籍図や聞き取り調査によって判明した当時の様子を描いたもので、この頃も旅籠をはじめ、物作りや商いをする店、庄屋や問屋場などがあったことが分かります。
 さらに、案内板を見ると、宿場の中ほどに火除[ひよ]け土手が描かれています。当時は、木造の家屋が密集しており、火事が発生すると燃え移りやすかったため、防火の役割をする火除け土手が造られていました。火除け土手のあった場所は、現在は郵便局と公園になっていますが、一部に火除け土手の名残がみられます。
 今も宿場の趣を残す長野宿を訪れ、当時の様子に思いをはせてはいかがでしょう。


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