「広報津」平成26年4月16日/第200号(音声読み上げ) 歴史散歩(95)

登録日:2016年2月25日

 このページは、音声読み上げソフトウェアに対応するため、語句のなかで一部ひらがなを使用しています。
 広報津(PDF版)は広報津(PDF/7.47MB)からご覧いただけます。

 

裏表紙  

歴史散歩(95)

富士講の祖 食行身禄

 昨年、世界文化遺産に登録され、多くの人が訪れた富士山。この富士山に一般庶民が登るようになったのは、富士講と呼ばれる信仰が一般に広まった江戸時代のことです。その富士講の元祖と呼ばれる人物が食行身禄[じきぎょうみろく]で、寛文11(1671)年、いちし郡川上村(現在の美杉町川上)の農家に生まれました。
 身禄は、本名を伊藤伊兵衛、幼名を善太郎といい、13歳の時に伯父を頼って江戸に出て奉公し、その後独立して神田や本町に呉服店を持つなど、商売で成功を収めました。その一方で富士山への信仰心が強く、修行を積んで富士行者となり、「食行身禄」を名乗りました。世直しを願いつつ、身分制度を批判して男女平等を説き、享保18(1733)年63歳の時、富士山の烏帽子岩[えぼしいわ]で庶民救済を願い、断食して亡くなりました。
 その後、身禄の考えを支持する人々によって富士講は関東地方を中心に盛んになり、その修行の基本として富士登山が頻繁に行われました。あまりの隆盛ぶりに幕府は富士登山の禁止命令を何度も出しましたが、衰えを見せなかったそうです。
 富士講が形を変えながらも受け継がれていく中で、川上の地は身禄の生誕地として没後100年、150年といった節目の年に多くの人が訪れました。その生誕地である川上の相地[おうじ]集落には生家とされる家があり、その家の前にある石碑には「富士講元祖 食行身禄 生誕の地」と刻まれています。
 近年、富士講関係のまとまった資料が三重県に寄贈されました。これは身禄の遠縁に当たる家に伝来したもので、身禄自身に関わる資料は少ないものの、身禄の教えや生家との関わりなど、富士講の基本資料として貴重なものです。
 穏やかな春の日に、遥か東の霊峰富士との関わりを考えながら、郷土出身の偉人を育んだ川上の空気を感じてみてはいかがでしょうか。


記事の先頭へ 目次へ

14ページ目から15ページ目

 

このページに対するアンケートにお答えください

このページは見つけやすかったですか?
このページの内容はわかりやすかったですか?
このページの内容は参考になりましたか?

このページに関するお問い合わせ先

政策財務部 広報課
電話番号:059-229-3111
ファクス:059-229-3339