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安濃川上流の芸濃町うじい地区から県道42号を西へ向かうと、左手に美濃夜神社が見えてきます。この神社は、かつて溝淵大明神と呼ばれ、神社に残っている弘治元(1555)年の棟札[むなふだ]には、寄進者としてうじい氏の名前が記されています。うじい氏は、鎌倉から室町時代に、現在の美里地域に本拠を置いた長野氏の一族で、神社裏の山頂にあったうじい城の城主だったとされています。城跡は、平地との高低差が70メートルほどあり、東に安濃川の上流から中流までを望むことができ、城跡を川沿いに西へ向かうと伊賀地域へと至る交通の要衝でもありました。
うじい氏は長野氏とともに、北勢の関氏、ちゅうなんせいの北畠氏らと抗争と和睦を繰り返して地域支配を支え、一族の中で長野氏に次ぐ格の高さであったことが、室町時代の資料からうかがえます。永禄年間(1557から69)年には長野氏とともに北畠氏の配下となりましたが、織田信長の伊勢侵攻の際には、長野氏の養子に入っていた北畠具藤を追放し、織田信包(信長の弟)を養子に迎え、織田方に下ります。その後、うじい氏が安土城の留守を預かる役の一人であったという記録も残っています。
うじい城跡は、山頂の主郭を中心に複数の尾根筋に広がり、多くの曲輪[くるわ]や堀切が設けられていた当時の様子をしのばせています。主郭の背後も、堀切や土塁で守られた強固な造りで、当時の守りの堅さをうかがい知ることができます。
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