「広報津」平成26年10月16日/第212号(音声読み上げ) 歴史散歩(101)

登録日:2016年2月25日

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歴史散歩(101)

家所[いえどこ]城跡

 美里町いえどころにある辰水小学校の市道を挟んだ東側、標高約110メートルの丘陵に家所城跡があります。丘陵の南側と東側斜面は急な崖で、北側には谷が緩やかに広がっています。
 江戸時代の軍記物や地誌によると、家所城の城主とされる家所氏は、美里地域に本拠を置いた長野氏の一族で、雲林院[うじい]氏、草生[くさわ]氏らとともに、長野氏の地域支配の一翼を担っていたとされています。
 長野氏は、一族を配置した安濃郡のみではなく奄芸[あんき]郡まで支配し、時には北勢各地にも勢力を伸ばし、桑名まで進出したこともありました。その一方、当時の伊勢国は、雲ず川付近を境にしていちし郡より南は伊勢国司北畠氏の支配下にあり、長野氏と北畠氏は対立を繰り返していました。
 天文18(1549)年ごろ、長野氏の家中錯乱と呼ばれる内部抗争が勃発します。この抗争は家所氏と、北畠氏家臣の佐藤氏が連携して引き起こされましたが、失敗に終わり、翌年には家所氏は城を没収され、長野氏の一族の分部氏に家所城が預けられました。
 ところが、永禄元(1558)年に長野氏は北畠氏の養子を受け入れ、その支配下に入ります。さらに、永禄11(1568)年の織田軍の伊勢侵攻の際には、信長の弟信包を長野氏の養子にするという分部氏の策を受け入れ、織田方に下ります。この時、家所氏も雲林院氏、草生氏らとともに織田氏と和睦していますが、その後の家所氏の動向は明らかではありません。
 家所城の中心は、東西約60メートル、南北約50メートルの長方形の曲輪[くるわ]です。曲輪の北、南、西に土塁があり、このように曲輪の三方に土塁を持つ形態の城は、長野氏領域にいくつか分布しています。また、曲輪の北東隅の土塁は高く、幅も広くなっており、曲輪の北辺中央には東西約10メートル、南北約5メートルの櫓台[やぐらだい]もあります。これらは、主に敵の侵入を防ぐための工夫だったと考えられています。
 家所城までの順路には案内板も整備され、比較的容易に登れますので、秋の一日、史跡を巡って当時の美里地域に思いをはせてみてはいかがでしょうか。


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