「広報津」平成27年5月16日/第226号(音声読み上げ) 歴史散歩(108)

登録日:2016年2月25日

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裏表紙   

歴史散歩(108)

分部[わけべ]氏のあゆみ

 はせ山の麓にある分部の地は、江戸時代の初めに二万石の大名となった分部氏の本拠地と言われています。分部には、社殿修理に関わった分部氏の名が記された棟札[むなふだ]のある平泉神社があり、集落の中心付近には、かつて分部城があったと伝えられています。
 分部氏の歴史は古く、鎌倉時代にさかのぼります。その当時の記録「安東郡専当沙汰文[あんとうぐんせんとうさたぶみ]」には、堅田(現在の片田)の田畑一反を伊勢神宮に寄進したことが記されています。伊勢神宮のもとで土地の調査を行う検注使[けんちゅうし]に任じられ、この頃から在地の領主として安濃郡を中心にその活動が見られます。
 その後、分部氏は戦国時代に安濃・奄芸郡[あんきぐん]を勢力範囲とした国人領主の長野氏の家臣となっていたようで、若松(現在の鈴鹿市)など河曲[かわわ]・奄芸郡での活動の跡が確認されます。その背景には隣接する鈴鹿郡の関氏との勢力争いがあり、分部氏が拠点としたのが、上野城と考えられています。上野城跡(河芸町上野)は中勢地域では最大規模の城郭で、現在でも空堀や土塁などが随所に残っています。
 しかし、天文[てんぶん]17(1548)年に分部氏は、上野城を出て家所[いえどころ]城(美里町)に入っています。この頃、長野氏では対立している戦国大名の北畠氏が関わる内部抗争があり、この争いに勝利した長野藤定[ふじさだ]によって家所城の警護を命じられたもので、分部氏への信任の厚さがうかがえます。今も家所城跡には、三方に土塁が巡る特徴的な郭などが良好な状態で残っています。
 戦国時代の末期、分部光嘉[みつよし]は長野家の養子となった織田信包[のぶかね](信長の弟)に仕えていました。その後、光嘉は豊臣秀吉に仕え、奄芸郡を中心に一万石の所領を与えられました。さらに、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは、光嘉は徳川家康にくみし、その前哨戦となった安濃津城での戦いでは、安濃津城主の富田信高と共に城にこもり、光嘉はその功により家康から奄芸郡を中心に二万石を与えられて上野藩主となりました。
 このように、分部氏は戦国時代の天下統一の流れの中で巧みに成長し、この地域の在地領主から大名となった希有[けう]な存在でした。しかし、元和[げんな]5(1619)年に近江国大溝[おおみぞ]藩(現在の滋賀県高島市)に移封され、伊勢国を離れてしまいます。その後は、江戸時代を通じて領地替えもなく、近江の地で明治時代を迎えました。
 現在、上野城跡は公園や寺院となっています。その中の一つ、円光寺には分部氏歴代の墓とされる五輪塔が4基残り、今も城跡を見守るようにひっそりとたたずんでいます。


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