今日誰もが一度は歌ったことのある童謡「鯉のぼり」(甍の波と雲の波)、「靴が鳴る」(お手つないで野道を行けば)、「浜千鳥」(青い月夜の 浜辺には)、「叱られて」(叱られて 叱られて あの子は町まで お使いに)、「雀の学校」(ちいちいぱっぱ ちいぱっぱ)、「春よ来い」(春よ来い 早く来い)などを作曲した人物で、その生涯で作曲した歌は数千曲に及ぶ。
弘田龍太郎が津に住んだのは、明治35年(1902)11月に、父弘田正郎が千葉県師範学校(現千葉大学)校長から三重県立第一中学校(現三重県立津高等学校)校長に赴任することになって、一家が津に転居したことに始まる。
このとき満10歳の龍太郎は、津市立養正小学校に転入し、卒業後三重県立第一中学校に進学して、津でおよそ7年間の少年時代を過ごした。
中学校時代の龍太郎は、無口な方でこつこつと勉強するタイプの生徒であったという。後の作曲家としての片りんを示すエピソードに、中学一年生当時の明治38年(1905)、日露戦争の戦勝報告が入ると、町中を旗行列や提灯行列が行われ、太鼓やラッパの楽隊が行進すると、龍太郎はその曲を聴いてすらすらと譜面におこしたといわれる。
中学卒業後は、東京音楽学校(現東京芸術大学)に進み、在学中から作曲活動を行い、現在作者不詳となっている「鯉のぼり」は、龍太郎最初期の作品であるという。
弘田龍太郎の作曲が最も精力的に行われたのは、大正7、8年(1918~19)ごろのことで、児童文学雑誌「赤い鳥」との関係からである。「赤い鳥」は、子どもにもっと自由な夢や感情を訴える新しい児童文学・芸術運動を目指し、童謡の作詞には、北原白秋・西条八十・野口雨情ら詩人があたり、作曲には成田為三・草川信・中山晋平らで、龍太郎はその作曲陣の有力な一員であった。
この頃からおよそ5年ほどの間に、今でも歌い継がれる童謡・歌曲が生まれ、龍太郎の作曲活動のなかで一番花開いた時期であった。そして、少年時代過ごした津の情景などは、その創作活動に影響をあたえたといわれる。
晩年は、幼児教育に重要性を感じて長女夫妻が創設した幼稚園の園長となり、幼児のためのリズムなども作曲して、音楽を積極的に幼児教育に取り入れて、放送講習会、リズム遊びの指導に専念した。昭和27(1952)11月17日に60歳というまだまだこれからという年齢で惜しくも亡くなり、東京都台東区谷中の臨済宗普門山全生庵に葬られた。
年代
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事項
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明治25年(1892) | 6月30日高知県安芸市に生まれる。 |
明治31年(1897) | 父正郎の千葉県立師範学校(現千葉大学)校長就任により同校附属小学校に入学。 |
明治35年(1902) | 11月父正郎が三重県立第一中学校(現三重県立津高等学校)校長に転任となり津市に転居。津市立養正小学校へ転入。 |
明治38年(1905) | 4月三重県立第一中学校に入学。 |
明治43年(1910) | 3月三重県立第一中学校卒業後、東京音楽学校(現東京芸術大学)に入学。 |
大正2年(1913) | 東京音楽学校在学3年、童謡「鯉のぼり」を作曲。 |
大正3年(1914) | 東京音楽学校本科器楽部ピアノ科を卒業し、研究科に進む。 |
大正5年(1916) | 3月研究科器楽部を卒業し、4月より授業補助を命じられる。文部省邦楽調査委員となる。この頃オペラ・民謡を研究する。 |
大正8年(1919) | 3月研究科作曲部を卒業し、東京音楽学校講師となる。この頃より児童文学雑誌『赤い鳥』の童話童謡の文学的運動に作曲家として協力し、大正12年(1923)までの5年間ほどの間に「靴が鳴る」、「浜千鳥」、「叱られて」、「雀の学校」、「春よ来い」などの名曲を作曲。 |
大正9年(1920) | 東京音楽学校助教授となる。 |
昭和3年(1928) | 文部省在外研究員として、ドイツベルリンにピアノ・作曲を研究のため留学。翌年6月帰国。 |
昭和4年(1929) | 7月東京音楽学校教授となるが、作曲活動専念のため9月に辞任。作曲活動のかたわらラジオの子ども番組の指導や児童合唱団の指揮指導にあたる。 |
昭和20年(1945) | 日本大学芸術学科教授となる。 |
昭和21年(1946) | 日本音楽著作権協会監事となる。 |
昭和22年(1947) | 3月ゆかり文化幼稚園園長となり、その後幼児教育に携わり放送講習会を開催し、リズム遊びの指導にあたった。 |
昭和25年(1950) | 3月名古屋女学院短期大学音楽科主任、東京宝仙短期大学教授音楽主任となる。 |
昭和27年(1952) | 11月17日永眠。享年60歳。東京都台東区谷中の臨済宗普門山全生庵に葬られる。 |