西島八兵衛

登録日:2018年8月3日

西島八兵衛(1596~1680)

西島八兵衛は、慶長元年(1596)浜松に生まれ、名を之友(ゆきとも)といい17才のとき、藤堂高虎の近習として禄高150石で仕えて以来、高虎の信頼を得て津藩を水利・かんがいの面から支えた人物である。八兵衛は、津藩では小波田新田(現在の名張市)や雲出井用水路の開発を行い、その能力は津藩縁戚の讃岐生駒藩のためにも発揮し、満濃池(高松市)の修築を行うなど後世に恩恵をもたらす多くの業績を残した。

讃岐高松の満濃池修築

讃岐地方は水利が悪く、農地はため池によって守られその中心的なため池が有名な満濃池である。寛永元年(1624)と3年、瀬戸内地方はひどい干ばつに見舞われたことから、津藩藤堂高虎は縁戚の讃岐生駒高俊に懇請され、後見役として派遣していた八兵衛にその開発を当たらせた。
寛永5年、津藩江戸詰用人の家格のまま満濃池の修築にあたり、3年を経て寛永8年2月、長さ45間、堤突留6間、堤後法23間、堤前法35間、大きさは南北900間、東西450間、周囲4,500間、深さ11間という大池の再築造を成功させた。
このほか、大小95カ所に及ぶため池の修築や新築、川の付け替え、堤防の建設、新田の開発などを行い、生駒藩領内の荒廃地を美田によみがえらせた。

雲出井の開削

雲出川下流地域の村々は、川がそばを流れているにもかかわらず、その水面が低く干ばつ悩まされた地域であった。寛永19年(1642)、正保3年(1646)と時を経ずして襲った大干ばつは、津藩領内を大凶作とさせた。2代藩主藤堂高次は、八兵衛に領内を巡回させ復興を図らせた。
雲出井の工事は、戸木村(現戸木町)を流れる雲出川に堰を設けて取水し、少し下がったところから大谷の稲代川を併用して、久居台地を迂回して雲出地域まで水を流す、延長 7,200間(約13キロメートル)に及ぶ大工事であった。
八兵衛は工事の陣頭指揮をし、土地の高低差を調べるのに夜間松明を灯し遠望して測量し、井水の側溝斜面には竹を植えて崩壊を防いだ。水路は途中に7カ所樋門を設け、水流を調節する方法をとった。水路は高茶屋で三分(高郷井・八寸・揚溝)して、高茶屋・雲出の村々へ水が行き渡るようにし、以後干ばつの心配がなく600余町歩の水田がその水の恩恵を受けた。
村人は八兵衛の徳を称え、八兵衛の死後まもない天和4年(1684)井水三分岐点に井ノ宮神社(水分神社)を建立し、その霊を祭った。

 

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