藤島武二

登録日:2018年8月3日

津で教鞭をとった 藤島武二

画家藤島武二[慶応3(1867)年~昭和18(1943)年]というと、すぐ「上海黄浦江」の黄色い川の色とそこに浮かんでいた船を思い出す。どうもそれは、旧制中学時代の図画の教科書にその絵が掲載されていたからではないだろうか。海の日の出を描いた「東海旭光」は東京のブリジストン美術館で、確かに現物を見た。

昭和57(1982)年、三重県立美術館が開館して、その翌年4月、没後40周年記念の「藤島武二展」が開催されて、その生涯にわたる画業が三重県でも公開されたが、このわが国近代洋画の代表的な画家の一人である藤島武二が、津と関係がある。つまりその若き日(26~29歳)、明治26(1893)年7月から明治29(1896)年7月までの3年間、県立津中学校(現津高等学校の前身、校舎は今の西橋内中学校のところにあった)で教鞭をとっているのである。

藤島武二の生まれは鹿児島、幼いときから絵を好み、最初は日本画を学ぶが飽きたらず、洋画を志す。上京するが当時洋画を学ぶところに乏しく、最初に洋画家に入門したのは明治23(1890)年になっている。ところが彼は幼くして父を失い、一家を支える収入を得るには、その技を生かして図画教師になるほかなく、検定によって中等学校教員免許状を取得した。そして最初に赴任したのが、津中学校だったのである。助教諭で月俸23円であった。

その後、明治29(1896)年9月から、東京美術学校に西洋画科を開設することになり、その準備に当たっていた同郷の黒田清輝(明治26年フランス留学より帰国)が藤島武二を助教授に推挙した。地方の中学校の図画教師が、わが国の美術教育の中核たる美術学校の助教授に抜てきされたのであるから大したことであった。彼の才能によるが、彼が洋画家として本格的な実力を発揮していくのはそれ以降のことである。

現在、藤島武二が在津時代のころ描いたとみられる絵は、石水博物館に2点収蔵されている。一つは「桜の美人(桜狩下絵)」であり、これは明治美術会の第5回展(明治26年)に出品した「桜狩」の下絵である。当時はそんな「歴史画的風俗画」(藤島武二展図録参照)を描いていた。この桜の木の下の婦人像のモデルは藤島武二の近所の料理屋の娘さんだったといい伝えられている。もう1つは「婦人像」と題する若い婦人のデッサンである。なお、県立美術館には何点かの藤島武二の絵が収蔵されていて、常設展でも彼の作品を見ることができる。
付言すれば、藤島武二の後、津中学校に赴任したのは、鹿子木孟郎であり、彼ものち関西美術院長、文展・帝展審査員など美術界で活躍した。

「桜の美人」の写真

桜の美人<石水博物館蔵>

 

 

「藤島武二が描いた日の出(伊勢朝熊山よりの眺望)」の写真

藤島武二が描いた日の出(伊勢朝熊山よりの眺望)<県立美術館蔵>

 

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