村田佐十郎の著書「算法地方指南」 |
江戸時代末期、津藩に数学者がいたことはあまり知られていない。その名は、村田佐十郎という。村田家は、代々津藩士で佐十郎を名乗った。幼名を長太郎といい、恒光、如訥、洞江、柏堂、朽木軒とも号した。残念ながら生年月日は分からないが、はじめ江戸染井の藤堂藩下屋敷に住み、のち津に帰り、馬場屋敷(現在の津市体育館付近)に住んだ。家禄は80俵で、下級武士であった。そして、江戸に在住中、和算や測量術を学んだ。
津に帰った佐十郎は、嘉永年間(1848~1854年)に藩校有造館の天文算学の教師になるが、その前の天保5(1834)年には「算法側円詳解」を著し、天保7(1836)年に「算法地方指南」を著している。「算法側円詳解」の側円とはだ円のことで、当時だ円だけを対象にした研究書は珍しく、その名は全国の数学者に知られていた。「算法地方指南」は、田畑の反別、高取、検見などの測量法を簡潔に解いた実用的なものであったため、一般にも広く読まれて佐十郎の名はますます知られるようになった。嘉永6(1853)年に「六分円器量地手引草」(測量の手引書)も出し、その年に門人たちと伊勢湾岸の測量も行っている。
彼が作った地図で有名なものに、木版色刷りの「文久改正伊勢国細見之図」がある。序文に「旅中掌覧ノ便二備工」とあるように小型の地図である。図中には、コンパスや岩田川河口贄崎からの各地への方位・里程の記載もあり、算学者らしい配慮がみられる。
村田佐十郎が作った地図「文久改正伊勢国細見之図」 |
村田佐十郎の墓 |
また、安政2(1855)年から2年間、幕府の長崎海軍伝習所に藩から派遣されて、オランダ士官から西洋数学や測量学を学んだ。帰藩後、文久2(1862)年に幕府海軍の測量班に随行して、伊勢湾や志摩沿岸の測量に従事した。ちょうどそのころ、アメリカの測量船がやって来て伊勢湾の測量を願い出たが、津藩では家来にいささか心得ある者がいるとその地図を見せたところ、その出来栄えの精巧さに驚いて、測量の願いを取り下げたといわれている。
しかし、その才能を新しい時代に十分に生かせないまま、明治3(1870)年にその生涯を閉じた。墓は偕楽霊園の阿弥陀寺墓地にあり、墓碑には、柏堂村田先生墓と記されている。