幕末から明治にかけ、雲出に住み地元子弟の教育に尽力した人に根本貞路(てる)がいる。
貞路は、文政元(1818)年7月12日上州(群馬県)高崎に生まれ、明治28(1895)年5月18日雲出で亡くなったが、終生独身を通し、男装して教壇に立ったという。貞路の出生については「上州高崎の士某の女」とあるだけで詳しくは分からないが、貞路が11・12歳のころ根本信親の養女となっている。
根本信親は元仙台藩士で、新関家を継ぐとともに儒学や医学を学んだ。「故あって」藩を去り新関家を離れるとともに根本姓に戻ったが、理由は明らかになっていない。その彼が貞路を養女とし、実子得子を妹とし姉妹として育てたが、貞路は病弱な妹の世話をしながら父によく仕えたという。信親が各地を流浪の末、貞路姉妹を連れ雲出の地を初めて踏んだのは天保8(1837)年のことである。雲出に落ち着いた信親が医術に詳しくかつ学者であることが知れ渡り、やがて医療の傍ら付近の子弟に手習いを教えた。嘉永6(1853)年信親が病没した後、貞路は根本家を相続するとともに、父の遺志を継ぎ光徳寺に寺子屋雀集堂を開き、近郷の子弟の教育に当たった。
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時は移り、時代は明治となった。明治政府の諸改革の中で重要なものの一つに教育の改革がある。明治6(1873)年に学制が公布され、寺子屋は廃止され、全国に小学校が置かれた。雲出にも他校に先駆けて本郷(現雲出)小学校が開設され、貞路も当然教員の一人として奉職している。
ところで、貞路の教員としての地位であるが、「雲出小学校史」をはじめ「津市史」など多くの資料には初代校長となっている。ところが、最近発行された佐々木仁三郎氏の著書「近世郷土の教育先賢根本貞路」には、貞路は校長ではなく、職員地位では最も低い仮教員または助手として終始一貫していたと書かれている。
当時教員は「師範学校卒業免状あるいは中学免状を得しもの」となっていたが、取りあえず読み書き算盤のできるものを仮教員として採用し、教員講習所で講習を受けさせ教員とした一方、この講習を受けないものは教師として採用されなかった。そのため、貞路も当然この講習を受けなければならなかったが、すでに初老の域(56歳)に達していたため受講したかどうか定かでないが、仮教員で終始しているところをみると受講していなかったのではないかと思われる。貞路にとっては身分的な問題より、教壇に立てる喜びのほうが大きかったのであろう。
貞路の小学校在職は13年に及び、明治19(1886)年退職している。雀集堂での教育から数えると半世紀にも及び、その教えを受けたものは3,000人にもなるといわれている。これらの人々は貞路の徳をたたえ、貞路74歳の時寿碑を建立した。今、雲出市民センター脇の雀集園内に建つのがそれで、ここには昭和48年に建てられた貞路の胸像とともに、今も人々に親しまれている。
雲出市民センター脇の雀集園 |