登勢は、天明(てんめい)8年(1788)伊勢国員弁郡阿下喜村(いせこくいなべぐんあげきむら)(現いなべ市北勢町阿下喜)で生まれ、まもなく、奄芸郡山田井村(あんきぐんやまだいむら)(現大里睦合町)の農家・吉兵衛(きちべい)方の養女となりました。六年後、吉兵衛に実子ができたので、安濃郡連部村(現安濃町連部)の前田伝蔵(でんぞう)のもとへ養女に出されました。やがて、伝蔵が病に倒れ、生計が苦しくなりました。登勢は13歳になり、奉公に出て家計を支え、一心不乱に両親のために働き、孝行を尽くしました。
享和(きょうわ)2年(1802)、伝蔵夫婦は湯治(とうじ)のため熊野本宮詣でに、その後、善光寺(ぜんこうじ)詣でに旅立ちました。これらを知らされなかった登勢は、両親を追いかけ、行き倒れ寸前の両親を助け、帰郷しました。文化(ぶんか)4年(1807)登勢は、両親の病が重くなったことから奉公をやめ、内職をしながら看護に専念しました。
文化5年(1808)、津藩主藤堂高兌(たかさわ)が登勢の親孝行の話を聞いて、田畑1反余と米20俵を登勢に与え、年貢を免じ、医者に両親の治療をさせました。4年後、治療のかいなく伝蔵が、6年後、母もなくなりました。
天保(てんぽう)11年(1840)7月13日に、親孝行一筋に生きた登勢は53歳の一生を終ました。
江戸時代に実在した孝女登勢という女性の並々ならぬ孝行心を讃えた石碑が残っています。
比類なき孝心をもった登勢をしのんで、今も墓には花が供えられています。
県指定史跡
指定 昭和16年(1941)5月21日
孝女登勢墓 (こうじょとせのはか)
墓石高 | 90センチメートル |
時代 | 江戸時代 |
所有者 | 個人 |