伊良子清白(いらこ せいはく)は、鳥取県生まれの歌人で、三重県を舞台に医業の傍ら詩作を続けた人物です。本名は伊良子暉造(いらこ てるぞう)といい、明治10(1877)年、鳥取市に生まれました。清白は、医師の父親に連れられて大阪に移り、更に明治20(1887)年11月に津市下部田(現在の津駅周辺)へ転居します。清白は立誠小学校に転入学し、明治21年には養正小学校高等科へ進みました。翌明治22年、清白は私立の四州学館(ししゅうがっかん)に移り、明治23年、三重県尋常中学校(現在の三重県立津高等学校)に進学します。明治25年、15歳の清白は「小詩人」「知美会雑誌」「軽文学」などの同人雑誌をはじめ、詩や文章を書き始めたようです。この尋常中学校時代が清白の詩作が始まった時期と推定されます。
清白は明治27(1894)年、京都で下宿を始め、翌明治28年、京都医学校(現在の京都府立医科大学)に入学します。京都医学校在学中から雑誌「文庫」などに新体詩、短歌、俳句、随筆などを投稿し、卒業後は上京して医業のかたわらで詩作を続けました。明治39(1906)年には作品18篇を納めた詩集「孔雀船」を発表しますが、刊行の直前に東京を離れ、島根・大分・台湾・京都などで医業に専念し、大正11(1922)年には三重県鳥羽市で開業しました。文壇を離れた清白は、一時期は行方不明といわれるほど漂泊と隠遁の日々を送りましたが、このころから「孔雀船」の評価が高まり、清白は再び詩壇に復帰します。後に短歌雑誌「白鳥」を刊行し、三重歌壇の指導者としても活躍しますが、昭和21(1946)年、往診に向かう山道で倒れ、死去しました。清白が鳥羽で生活していた時の住宅兼診療所は、国の登録有形文化財となっています。
清白が通った三重県尋常中学校の校舎
平出隆 「年譜」 「伊良子清白全集」第2巻 岩波書店 2003年
山路峯男 「伊良子清白研究」 木犀書房 1976年