「広報津」第275号(音声読み上げ)表紙、第33回市長対談

登録日:2017年6月1日

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表紙

広報津 平成29年6月1日 第275号

世界の名車、津市に集結!

写真 クラシックカーのイベント ラ フェスタ プリマヴェラで、一身田寺内町の歴史ある町並みを往年の名車が駆け抜けました(4月14日)

第33回市長対談 変化に対応できるものが生き残る

J・フロントリテイリング相談役 奥田 務さん
津市長 前葉泰幸

平成29年4月18日、J.フロントリテイリング株式会社相談役の奥田務さんを津市ビジネスサポートセンター開設記念セミナーにお迎えし、ご講演いただきました。大丸と松坂屋が経営統合したJ.フロントリテイリングにおいて社長・会長兼最高経営責任者をお務めになった奥田さんに、津市にある企業のサポートなどについて前葉泰幸市長がお話を伺いました。

変化に対応できるものが生き残る

市長 奥田さんは津市東町のご出身です。お祖父様は津市で証券会社を創業なさった方であり、昭和14年にお生まれの奥田さんは私の母と津高校の同級生に当たられます。ご縁を感じますが、津の経済人からすれば神様のような方でいらっしゃいます。
ご自宅は昭和20年の空襲で焼けてしまったのですね。

奥田 直前に疎開していました。

市長 慶応義塾大学法学部に進学され、卒業後は大丸さんに入社なさいましたが、ご自身の強い意志でしょうか。

奥田 私が大丸に入社した頃は、百貨店が小売りの王者で、大丸は小売業売上日本一でした。大学を卒業するときに、流通革命(林周二著、中央公論社、1962年)という本が大ベストセラーになり、小売業が日本の生産体系を変えるという内容に非常に興味を持ちました。
また、大丸は当時では非常に珍しく海外に店を構えていました。国際化が早くすでに香港に店舗をオープンしていたことも、この企業は面白いんじゃないかと入社した理由の一つです。

市長 入社後は、京都店からスタートされました。私も京都市役所に2年間勤務し、四条高倉の大丸さんでよく買い物をしましたが、興味深いのは、京都店で外商のご担当だったことです。なかなか深いものがあったのではないですか。

奥田 大丸は今年で創業300年になります。京都の伏見に業祖が呉服屋を開いたことから、京都市民の皆さんからは大丸さんと呼ばれて可愛がっていただきました。配属された外商というのは、売り場でじっとお客さまを待つのではなく、こちらからお客さまをお訪ねして買っていただく、いわば商売の原点です。そういう意味で、小売業のスタートとしては非常に良い勉強をさせていただきました。

市長 その後は海外留学もされています。1974年のことですが、当時のアメリカはどうでしたか。

奥田 経済的にも政治的にもすごい時代でした。アメリカのプライドと良さが残っている時で、何でも教えてやるという懐の深さがありました。80年代になると日本が競争相手として見られるようになったので、良い時期に勉強できたと思います。

社長就任時に先代から厳命先義後利と大丸の名前

市長 アメリカでのご経験を日本に持ち帰り、梅田店や、本社営業企画部長を経て、いよいよ、大丸オーストラリアでしたね。

奥田 当時日本の百貨店が海外出店した先は、香港、シンガポール、タイといったアジア圏が中心でした。小売りビジネスを現地に教えるという、先生気分だったわけです。しかしオーストラリアは、小売業では、欧米に次ぐ先進国です。お客さまも欧米人で、そこに25,000平方メートルという大型店舗を開店したので、今までとは違った苦労がありました。

市長 オーストラリアにおけるビジネススタイルは、日本とは大きく違いましたか。

奥田 全く違います。アジアへの出店では、日本企業に対するリスペクト(尊敬)がありましたが、オーストラリアでは、下から上を見上げるというか、よく言ってスクラッチ(対等)ですね。
もう1つは、異文化を非常に尊重する社会でした。日本は、民族的にも、言語的にも、思想体系や物事を考える歴史も同じですから、単一とまではいきませんがある意味シンプルな社会です。オーストラリアでは私が社長の頃、1,000人くらいの社員を雇っていましたが、祖父母の代までさかのぼると100カ国くらいの人が来ていました。副社長の営業部長が南アフリカ系オーストラリア人、人事部長がイギリス人、総務部長がアメリカのニューヨーカー、宣伝部長がドイツ系。それに現地の人と、我々日本人。考え方が大きく違う。ただ、会社を良くしようという思いだけは共通しているわけです。グローバル社会を生き抜くためには、異質の人を集めて、異質を認めながら、一つの目的に向かってどのように進めていくかが非常に大切だと痛感しました。

市長 私自身も、自治省、総務省、そして地方公共団体と国内に限られていた職場から、外資系の金融機関という異質の世界に飛び込んだことで、日本の見え方がずいぶん変わりました。
奥田さんはその後、オーストラリアでのご経験を手土産に経営陣に入られます。社長ご就任は、1997年。57歳とずいぶんお若い社長さんでしたね。

奥田 今は時代が変わりましたが、日本百貨店協会で社長の集まりがあり、私は最年少で青二才扱いされた覚えがあります。

市長 大丸が若い人に任せようという意欲を、組織として持っていたんでしょうね。

奥田 私の前任の社長は下村さんという方で、創業家の12代目でした。創業家としては、最後の社長です。その下村さんから急きょ日本に呼び戻され取締役になりましたが、1年半後次は君が社長をやれと言われて、これは困ったなと。ちょうどバブルが崩壊した直後で、大きな会社がどんどんつぶれる大変な時代でした。今までの日本の価値観で経営していくのであれば、私よりはるかに優秀な先輩が大勢いらっしゃいましたが、新しい時代に対応するには、新しい価値観と新しい経験を持った若い人間が必要だと決断なさったのだと思います。下村さんに何をやればいいんですかとお伺いしたところ、何でも思い切ってやってくれ、過去のことは一切問わなくてもいいとおっしゃいました。そして、守ってほしいことが2つだけあると。1つは先義後利。常にお客さまと社会を第一に考えて行動していれば、利益は自ずと生まれてくるという私どもの社是です。もう一つは大丸という名前は絶対に残すこと。あとは何をやっても構わないと言っていただいたので、思い切っていろいろな改革に取り組めました。

不思議な縁に導かれた松坂屋との合併舞台裏

市長 ちょうど時代が大きく動いていく中で奥田社長が力を発揮され、会長にご就任なさってから、松坂屋との経営統合の話が始まるわけですね。松坂屋の会長・相談役を務められた岡田邦彦さんは、お祭りのつながりで、よく津にもいらしてくださいます。日本経済新聞の私の履歴書にもありましたが、岡田さんと新幹線で偶然隣り合わせたという出来事は、ドラマチックですね。

奥田 岡田さんは同じ三重県出身の先輩です。百貨店協会の集まりなどで一緒のときは、大丸と松坂屋の関係などを親しく話していました。
どういう関係かというと、2つありまして、1つは、江戸時代に大丸が大阪に続いて、圧倒的に松坂屋が強かった名古屋に進出したときのことです。当時は将軍吉宗が緊縮財政を敷いていましたが、名古屋のお殿様の徳川宗春は消費を活発化しようと幕府の政策に反発していました。

市長 今でいう経済活性化ですね。

奥田 大丸はそのお殿様に可愛がっていただいて松坂屋の牙城を脅かしたわけです。もう1つは、1970年くらいに百貨店の統合が始まるのではないかといわれた時期のことですが、この時に大丸と松坂屋は業務提携をやっています。ですから、全く縁がなかったわけではありませんが、私の履歴書に出てくるエピソードにあるように、飛び乗った新幹線の指定席で偶然隣り合わせた岡田さんとの話し合いが合併のひとつのきっかけとなったのは確かだと思います。

市長 設立されたJ.フロントリテイリングはイメージされた通りですか。

奥田 企業の合併というのは非常に難しいものなのですが、形だけは、皆さんに驚かれ話題にしていただくほど早く進みました。通常、大きくて歴史の古い企業というのは調整にずいぶんと時間がかかりますが、岡田さんと思い切ってやろうと相談し、話し合いを始めてから3年4カ月で統合を終えました。

市長 ダイナミックなお話ですね。津の経済人にもいろいろとヒントになりそうです。さて、ここ中勢北部サイエンスシティは63の企業が立地し、約3,000人が働く場所になりました。2006年の合併以来、津市では、この内陸型の工業団地も含めて広域的な経済活動が始まっていますが、奥田さんの目に最近の津市はどう映るのでしょうか。

奥田 私の津のイメージは、中学・高校の頃と、東京の大学から夏休みに帰省した時のものです。高度成長期で津のまちもずいぶん栄えていましたね。私は帰省して友人と会うときはだいたい立町に行きました。立町銀座と呼ばれるほど栄えていましたが、最近ではシャッター通りになっている。全国的な現象ではありますが、地方が苦戦を強いられている中、津の中心市街地も頑張っていただきたいと感じます。
一方で、サイエンスシティの工業団地をご案内いただいて、津もたいしたものだと地方の活性化のモデルを見る思いがしました。全国各地で皆さんそれぞれご努力なさっていますが、なかなか成功モデルがつかみにくいのが現状です。日本がこれから変わっていくためには、中央からではなく、地方がそれぞれの特徴を出して、そこから改革の芽が全国に広がっていくことを期待しています。そういう1つの芽を、今日は見せていただいて非常に心強く感じました。

予測不能な時代だからこそピンチをチャンスに変える

市長 私が6年前に市長に就任して以来、こちらの工業団地では毎年5社ぐらいの企業誘致が実現しています。そして今、津市にある企業の新しいビジネスの拡大や、新商品の開発などをビジネスサポートセンターで支援させていただこうと考えています。もう1つお伺いしたいのは、創業についてです。津市では毎年50件ぐらいずつありますが、どんなビジネスを展開していくのか見極めが非常に大切です。保証料を支援する制度などでサポートしていきますが、会社を起こすことについてはいかがお考えですか。

奥田 正直言ってなかなか難しいと思います。1980年代の日本では、高品質だけれども低価格なものを日本で生産し、円安の環境で輸出するビジネスモデルが成功しました。大企業を中心に工業製品が外資を稼いできて、下請け会社まで潤うという理論が成り立ちましたが、今の日本では難しい。しかし、日本人の頭の中には、まだ80年代の面影が一部残っている。

市長 残像としてですね。

奥田 少子高齢化や、グローバル化もどんどん進んできている中で、日本が一番得意としてきた、低価格で高品質という商品が中国やタイなどでもつくられます。ITを中心とする技術革新もキャッチアップしている。会社を起こされる方は、付加価値が高く、差別化がきいて、他国がまねをできない商品を高い人件費でつくって日本独自のブランドで売り出す努力が、必要になってきます。
もう1つは、内需です。内需は、人口減少でマーケットが小さくなるという側面はあるものの、地域でしか生まれないわけです。介護や医療、教育、保育、農業など地域で需要がある産業に目を向けずに、どうしても輸出立国というイメージにとらわれ製造部門のことばかり考えてしまいがちですが、日本経済のボリュームからすると、実は7割は、その地域に根差したローカルなマーケットだと思います。ここには私どもの小売りや、旅行、運輸関係も入ってきます。最近では観光産業や、老齢化に伴う介護医療といったマーケットも期待できます。こういったところから新しいビジネスモデルが生まれてくる可能性が大きくソフトノウハウの輸出も期待できます。

市長 人と人との関わりの中で生まれるビジネスですね。最後に、ふるさと津市の皆さんにメッセージをいただけますか。

奥田 私の経験から言えることは2つあります。1つはピンチの裏にチャンスありです。日本の経済は本当に厳しく、過去の延長線上では将来の姿が見えにくくなってきています。これは、断続とか不連続とか言われますが、とんでもない変化が次々と起こってくる今こそ、新しい企業や事業にとってはチャレンジする多くの機会が生まれてくるわけです。
もう1つは、ダーウィンが進化論の中で、どういう生物が生き残るかということを語った言葉です。大きくて力の強いものでも、頭の良いものでもなく唯一生き残っていく生物は、変化に対応していく生物だと言っています。そういう考え方は、企業や経済にも通用すると思います。危機感ばかりにとらわれず、時代の大きな変化をうまく利用してチャンスに切り替えていくという熱意と挑戦心を持ってぜひ頑張っていただきたいと思います。

J.フロントリテイリング株式会社 相談役 おくだ つとむさん

1939年三重県津市生まれ。1964年慶応義塾大学法学部卒業、同年4月大丸入社。大丸オーストラリア代表取締役、大丸取締役営業戦略室長などを経て1997年同社社長、2003年会長兼CEO。2007年松坂屋との経営統合により発足したJ.フロントリテイリング社長兼CEOに就任。2010年会長兼CEO。2013年から同社相談役。


 

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