登録日:2018年10月16日
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半田のせいけい霊苑の一角に仏眼寺墓地があり、たくさんの墓石が立ち並んでいます。その中に平松らくさい居士墓と書かれた墓石があります。ここが江戸時代後期に津藩の郡奉行などの要職を務め、学者としてもその名が知られた平松らくさいの墓です。また、隣には弟子が建立したことを示す、門人中と書かれた石灯籠が立てられています。
平松らくさいは、本名を まさよしといい、通称は健之助、後に改めて きぞう と名乗ります。自分の住まいを しらくか と称し、略して、らくさい と号しました。らくさいは、寛政4年(1792年)に藩医であった河野通賢の次子として生まれ、学問に励み20歳の時に平松家の養子となりました。その後、津藩士として江戸で10代藩主藤堂たかさわに仕えたのちに津に戻り、藩の将来を支える人材育成の拠点となった藩校有造館の創設に参画します。また、天保の飢饉の際には領民の救済に尽力するなど、民政家としても名を残し、嘉永5年(1852年)、61歳でこの世を去りました。
津市教育委員会には、寄贈された平松らくさい関係の資料が保管されており、大塩平八郎や齋藤拙堂など、当時の多くの学者と幅広い交友関係があったことが分かります。その中には、今年で生誕200年を迎え、北海道の名付け親として知られる松浦武四郎がおり、らくさいと武四郎の間で交わされた書簡も50点以上残されています。
文化15年(1818年)に生まれた松浦武四郎は、文政13年(1830年)、13歳の時に平松らくさいが開いた塾に入り、らくさいを師として学問を学びました。武四郎がらくさいの下で勉学に励んだのは、最初の旅に出た16歳までの短い期間でしたが、全国の国学者や儒学者、本草学者などと幅広い交流を持っていた らくさいとの出会いは、若き日の武四郎に大きな影響を与えたと考えられています。
11月11日日曜日まで、三重県総合博物館みえむ(一身田上津部田)では、企画展 幕末維新を生きた旅の巨人 松浦武四郎が開催されており、会場には武四郎が らくさいに宛てた書簡なども展示されています。この機会に江戸時代の学者たちの活発な交流に触れてみてはいかがでしょうか。
1949年津市生まれ。18歳から家業を継ぐ。ほんまは警察官になって白バイに乗りたかった、というほど乗り物好き。現在、津市物産振興会の会長を務め、市内には、うなぎ店はもちろん、さまざまな物産を扱うお店があるので、ぜひ足を運んでほしいと話す。
座右の銘は、遊び心を忘れずに。
今でも客として月に3回は食べる! ノー ウナギ、ノー ライフ!
津市教育委員会庁舎の向かいにある、緑色と黄色が特徴的な建物。新玉亭の先代社長で津市物産振興会の会長も務める すぎもと けんいちさんは、その色合いについて、緑は新緑、若葉の意味で大きく伸びていくように。黄色は勢いがあるやろ、と笑顔を浮かべた。
明治23年(1890年)、初代 杉本佐吉さんが現在の津市丸之内養正町で新玉亭を開いた。3代目の けんいちさんは、8年前に経営の第一線から退き、現在4代目の息子・浩也さんが焼き場を取り仕切る。たまり醤油と、氷砂糖、みりんで作るたれは、創業当時のレシピそのまま。120年以上続く老舗の味を受け継いでいる。
昔から計算が得意で商才を自覚していたという けんいちさん。よその店に行くよりも短時間で多くを学べると考え、実家でうなぎ修行を始めた。初代から受け継いだポリシー、一店主義を貫き、屈指の人気店に育て上げた。
(すぎもとさんのコメント)忙しくてお客さんを粗末にするぐらいなら、多店化するより店を半分にした方がまし。(コメントおわり)
子どもの頭ほどもある大盛りや、中盛りを完食した人だけが手にできる大盛札など常に遊び心を忘れない。(すぎもとさんのコメント)お客さんの驚く顔を見るのが楽しい。(コメントおわり)その思いは新たな伝統となって、今に受け継がれている。