略年譜

登録日:2018年8月3日


略年譜
年代 事項
弘治2年(1556) 近江国犬上郡藤堂村(のち在士村)に藤堂虎高の次男として生まれる。幼名「与吉」
元亀元年(1570) 浅井氏に仕える。姉川の戦いで初陣を飾る。
天正元年(1573) 浅井家を出奔する。磯野丹波守員昌に仕え80石を与えられる。
天正4年(1576) 磯野家を出奔する。木下秀長に仕え300石を与えられる。「与右衛門」と称する。
天正5年(1577) 木下秀長に従い、播磨に移る。
天正6年(1578) 羽柴秀吉の山陽・山陰攻略に従い、秀長旗下として戦う。
天正8年(1580) 山陽の三木城攻めで、敵将賀古六郎右衛門を討ち、名馬「賀古黒」を獲て愛馬とする。秀長に従い丹波に入り、一揆を治める。戦功により3,000石加増され3,300石となる。
天正9年(1581) 但馬養父郡大屋村の栃尾祐善の媒酌で、一色修理太夫の女(久芳夫人)と結婚する。
天正10年(1582) 秀吉の山陽・山陰攻略に従い、秀長旗下として戦い、本能寺の変後、山崎の戦いに従う。
天正11年(1583) 秀長に従い伊勢国で滝川一益と戦う。4月賤ヶ岳合戦に戦功し、秀吉より1,000石、秀長より300石の加増を受け4,600石となる。
天正12年(1584) 小牧・長久手の戦いに家来を率いて戦う。
天正13年(1585) 紀伊国平定のため秀長に従い、根来衆・熊野攻略に向かう。四国長曽我部氏と戦う。戦功により5,400石加増され10,000石になり大名格の身分となる。秀長の和歌山城築城に、築城奉行となる。
天正14年(1586) 秀吉が家康と縁を結び、家康の上洛に際して家康の京都邸造営を担当する。
天正15年(1587) 秀吉、九州へ出陣し、秀長軍の先鋒となり島津氏と戦う。戦功により従五位下に叙せられ佐渡守と称する。10,000石加増され紀州粉河20,000石の大名となり、居館を構える。丹羽長秀の三男「仙丸」(のち高吉)を養子とする。
天正18年(1590) 秀長軍を率いて北条氏と戦う。
天正19年(1591) 秀長死去し、嗣子秀保襲封。秀保の後見役となる。
文禄元年(1592) 朝鮮出兵(文禄の役)に従う
文禄4年(1595) 秀保急逝し嗣子ないため、主家廃絶となり高野山に入る。秀吉に請われて下山する。50,000石加増され伊予宇和島70,000石に封ぜられ、宇和島城を築く。
慶長元年(1596) 再び朝鮮出兵(慶長の役)に従い、水軍を指揮する。
慶長2年(1597) 朝鮮水軍に勝利。
慶長3年(1598) 戦功により伊予大洲で10,000石加増で、80,000石の大名となる。
慶長4年(1599) 弟正高を江戸に人質に出す。正高、家康より下総に3,000石知行地を与えられる。
慶長5年(1600) 関ヶ原の戦いで東軍に属して勝利。120,000石加増され、伊予今治に封ぜられ200,000石となる。今治城を築く。
慶長6年(1601) 近江膳所城の築城。
慶長9年(1604) 伏見城の修築。
慶長10年(1605) 松寿夫人と子高次を江戸に人質として差しだす。
慶長11年(1606) 江戸城修築で、天守閣築造の設計、二の丸・三の丸増築。20,000石加増される。
慶長12年(1607) 江戸城修築で縄張りや普請を受け持つ。官名「和泉守」に変わる。
慶長13年(1608) 伊予今治より伊賀・伊勢へ転封となる。伊賀国、伊勢国安濃郡・一志郡内、伊予国越智郡内(高吉支配)の計223,950石余の石高となる。9月、伊賀上野に入城。10月、津に入城。
慶長14年(1609) 丹波篠山城を修築。
慶長15年(1610) 丹波亀山城を修築。
慶長16年(1611) 津城・伊賀上野城の修築に着手。二条城で、家康・秀頼会見の接待役をする。肥後熊本藩の監国に赴く。
慶長17年(1612) 禁裏仙洞御所の修築。
慶長18年(1613) 伊予宇和島富田氏所領没収にあたり在番に赴く。
慶長19年(1614) 江戸城本丸修築。大坂冬の陣に従軍のため、11月津城を出発。
慶長20年(1615) 大坂夏の陣に従軍。戦功により、伊勢国鈴鹿郡等四郡の内で50,000石加増され、273,950石余となる。
元和2年(1616) 家康死去の後、日光東照宮造営にあたる。
元和3年(1617) 伊勢国田丸50,000石加増され、323,950石余りとなり、津藩の石高確定となる。
元和5年(1619) 徳川頼宣の和歌山転封にともない、田丸領50,000石を大和国で4郡・山城国で1郡と交換する。
元和6年(1620) 大坂城修築に。徳川秀忠娘和子(東福門院)の 入内に働き、実現する。
元和7年(1621) 二条城修築に従事。讃岐高松藩の監国を受け、外祖父の立場で藩政を補佐し、西島八兵衛を派遣する。
寛永3年(1626) 江戸上野東叡山寛永寺の造営。
寛永4年(1627) 東叡山寛永寺に東照社を奉納。
寛永6年(1629) 大坂城再建の縄張りをする。
寛永7年(1630) 眼疾により失明し、10月5日死去。享年75歳。
江戸上野の寒松院に葬られる。
 

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