登録日:2016年4月28日
津市芸濃町楠原字石山
石山観音は、かつて京や近江地方から伊勢方面に向かう人々でにぎわった旧伊勢別街道を少し南側に入った津市芸濃町楠原字石山2308番地に所在しています。
この地には、江戸時代の慶安年間(1648~1652)以前から真言宗寺院(浄蓮寺)の別院(浄蓮坊)があり、一帯を管理してきたと言われています。しかし、石山観音の草創等については諸書に記載されていますが、どの記述も曖昧な表現で、また確たる資料も残されていないため、多くのことが解明されていません。
「伊勢国史」(江戸時代の天明年間1781~1789)のころ、地元「楠原宿」の庄屋であった山田三左衛門という人の著書)では、石山観音の創始を弘法大師に求め、著者の家系の祖が再興したとしていますが、これらを裏付ける資料等も見つかっていません。
それらはともかく、現在残されている石仏について、美術史の専門家は、「四十余体の仏像のうち、概して大型のものが古く、鎌倉中期に遡るものがあり、その他は江戸初期までの間に西国三十三カ所にちなんで、観音像が彫刻されたと考えられる」という所見を述べています。
石山観音の磨崖仏は、岩質が脆く、細部が溶けたようになっているものが多い中、「阿弥陀如来立像」や「地蔵菩薩立像」などのように、比較的よい状態で残っているものも少なくありません。
石山観音の石仏の中で最大最古のものといわれています。総高は台座を含めて約5メートルの巨像で、阿弥陀如来特有の九つの来迎印のうち、下品上生(げぼんじょうしょう「上品下生とする場合あり」)印を結んでいます。衣文や台座などの様子から鎌倉時代に彫刻され、その後、部分的な修復がなされたと考えられています
石山観音の入口正面に立ち、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵菩薩の通例の姿を表す尊像です。錫杖の様式などから室町時代初期までの作といわれています。また、穏やかに微笑むような表情と十頭身に近い姿がこの像の特色です。
浄蓮寺の記録の中で、「同寺僧覚順が、嘉永元年(1848)に画工をして奈良唐招提寺の聖観音像を模写せしめ、巨巌に彫りつけた」とあることから、この造像の由来を知ることができます。他の指定文化財に比べ、石質がぜい弱であるため、顔面の風化が進んでしまっています。
石山観音公園内には、江戸時代に流行した西国三十カ所詣りにちなみ、当時を中心に作製された観音像が残っています。しかし、長年の風雪により欠落した像もあるため、大正、昭和の初期に別石を彫像して新しく補われています。
山頂から稜線をやや南に下ると大きな岩山が見え、この上から見ると馬の背中に乗ったような感じがするため「馬の背」と呼ばれています。現在は周りの木々が大きく生育していますが、眺望も開け、四季折々の雄大な自然が楽しめます。
石山観音公園の少し南側に小川があり、その人目につきにくい左岸の浸食崖に2体の地蔵菩薩、反対側の右岸に梵字種宇三体が刻まれています。地蔵菩薩は背面の丸みに及ぶまで深く穿たれて、ふくよかで厚みのある耳が強い印象を与えています。
古来より、石山観音では楠原地区の人々によって、毎年4月15日と9月15日に法要が営まれてきましたが、4月は田植え前の風雨順時を祈願し、9月は五穀豊穣を願ったものと思われます。
現在でも雨天を除き、毎年4月第2日曜日と9月第2日曜日に、楠原地区の人々を中心に法要が営まれています。特に4月は桜の季節で石山観音春祭りも同時に開催されます。
この案内は、平成22年度「地域かがやきプログラム事業」で作成したものを再構築しました。
石山観音公園へのアクセスは、地図(外部リンク)をご覧ください。