登録日:2023年9月5日
寛文9(1669)年、津藩第2代藩主の藤堂高次(とうどうたかつぐ)公が隠居する際に、長男・高久(たかひさ)公を津藩第3代藩主とし、次男高通(たかみち)公には5万石(後に3千石を加増)を分領して支藩を立てたことから久居藩が始まりました。当時、大名に世継ぎがないと改易(かいえき)で領地が没収されたりして、お家が取り潰しとなり、これは大名が最も恐れたことでした。その改易防止のため、分家を作ることは「お家存続、お家のため」そのものでした。
その後も津藩に相続者のない時は久居藩から養子に入るという密接な関係を持ち、高通公の長男高敏(たかとし)公を始め、4代、5代、7代、12代藩主が津藩を継いで支えました。
藩主系図(久居城下案内人の会「久居のお殿さま」より)(JPG/1MB)
江戸時代の人々は雲出川沿いの戸木、旧本村の地域で生活をしていました。今の久居中心街から戸木の東部一帯は野辺野、野辺と呼ぶ広野で、この豊かな自然を生かして次第に畑や水田が開けていきました。初代久居藩主高通公は、この風土を愛し、この地に永久に鎮居(ちんきょ)したいという意で「久居」と命名したとされています。
江戸時代末期に編纂された伊勢国各地の地誌「勢陽五鈴遺響(せいようごれいいきょう)」にも、その記述が残されています。
「久居ノ名義ハ安濃津ノ別府今ノ府城ヲ置テ永久ニ鎮居スルノ謂ニシテ寛文年中以後ノ名称ナリ」 (「勢陽五鈴遺響 一志郡3ノ巻」より)
寛文10(1670)年、初代藩主高通公は雲出の平原を一望に見渡せる野辺野の高台に陣屋(じんや)と城下町を整備しました。
西南の高台を御殿の敷地とし、東に大手門、北に2カ所、西に1カ所の裏門をつくり、その中を町割りにして藩士が住みました。武家屋敷の街割は、中央に大手通りをつくり(大手町)、南北には北から北町、中町、南町を設け、東西には西の御殿の方から上町、中町、下町と区分されました。現在の、東鷹跡町と西鷹跡町です。
城外には寺町や、職人の町として万(よろず)町、幸(さや)町、本町、二ノ町、旅篭(はたご)町を設けました。町方の住民には宅地を無償にし、各戸に菜園を与えて保護したため、町は急速に発展しました。寛文年間には侍屋敷が約200戸、町家は約500戸できたとされています。
そして城下町が整備された翌年の寛文11(1671)年7月17日に高通公が久居藩初代藩主として入城し、ここに名実ともに久居藤堂藩が生まれたのです。
城下地割図(久居城下案内人の会「久居のお殿さま」より)
現在の松阪市中林にある月本の追分で伊勢街道から別れて久居を通り、美里町五百野で伊賀街道と合流する道を「奈良街道」といいます。この街道は古くから行商人が往き交う開けたルートで、初代藩主高通公と交流のあった北村季吟(きたむらきぎん)や松尾芭蕉(まつおばしょう)も訪れています。
伊勢参り、おかげ参りを終えた旅人が京都・大阪方面の上方(かみがた)へ向かうには船で雲出川上流の木造(こつくり)・牧(まき)町、川方(かわかた)町を経て久居城下へ入りました。文政13(1830)年のおかげ参りの際には、10万人余りの旅人が城下を往来し、そのうち1,500人が旅籠町に宿泊したといわれています。
城下町の辻には目的地の方向などが刻まれた石柱上の道標が建てられました。今もその一部が残り、当時の面影をとどめています。
牧町に残る道標。「右 ならみち」、「左 さんぐうみち」とあります。
時代が進むにつれ、幕府が行う土木工事の手伝普請(てつだいふしん)や、天災、凶作が度重なり、財政事情は悪化していきました。そのため、藩主は常に経費節減や倹約を勧め、財政の立て直しに知恵を絞りました。
【義倉の設立】
12代藩主高兌(たかさわ)公は、寛政9(1797)年に藩士を救済する方法として義倉(ぎそう)を設立し、天災などによる急な藩財政の支出に備えました。この義倉は、以後100年間続き、明治4(1871)年の廃藩置県で久居県になったときには、堤防修理や久居義塾の基金にも活用されました。
【荒地開墾】
15代藩主高聴(たかより)公は、いわゆる天保の大飢饉で久居領内でも凶作が続いたため、天保7(1836)年に米蔵を開いて飢えに苦しむ人々を救済しました。その後も水害などにより藩財政は緊迫し続け、重臣による荒地開墾の計画を許し、自らも藩士とともに作業に汗を流しました。藩主自ら「もっこ」をかつぎ、開墾の作業に勤しんだことは当時としては破天荒なことであり、この話はたちまち京にまで聞こえ大きな話題となりました。
明治4(1871)年の廃藩置県により、久居藩は久居県となりました。その後、度会県となり、明治9(1876)年に合併して現在の三重県になりました。明治12(1879)年に東鷹跡町に一志郡役所が置かれ、一志郡の中心となりました。
明治22(1889)年には市町村制が施行され、久居町、本村、戸木村、桃園村、七栗村、稲葉村、榊原村が誕生しました。
当時三重県下に兵営がなかったことから、日露戦争後三重県議会で久居町に兵営を設置することが決まり、明治41(1908)年に歩兵第51連隊約3,000人が久居の新兵舎に凱旋しました。同年、県下で先駆けて津・久居間に軽便鉄道(けいべんてつどう)が開通し、次いで近畿日本鉄道の開通により交通機関が発達し、駅前は旅館や軍人関係の店が立ち並びました。その後、久居は太平洋戦争が終わる昭和20(1945)年までの37年間、三重県下にただ一つの軍都として賑わいました。
一志郡役所
軽便鉄道と久居駅
昭和になって近代的な地方自治が進み、昭和6(1929)年、久居町は隣村の本村と合併して人口1万人弱の町となりました。
その後、戦時中は地方自治の動きは止まりましたが、終戦後の昭和28(1953)年に町村合併促進法制定により再び地方自治の強化が進められました。そして、昭和30(1955)年3月に久居町、戸木村、桃園村、七栗村、稲葉村、榊原村の1町5カ村が合併し、同年4月に須ヶ瀬、8月に八知山を併合して新しい「久居町」が生まれました。当時の人口は約2万7,000人でした。
昭和30年ごろの久居中心街の様子(現在のアルスプラザ建設地から南方面を撮影)
昭和30年ごろの久居中心街の様子(現在のアルスプラザ建設地から西方面を撮影)
久居瓦のダルマ窯
江戸時代から野村町で始まった久居瓦は、昭和30年ごろには年平均200万枚も生産していました。
雲出井で遊ぶ人々(現在の青葉台付近)
風早池でのボート遊び
自衛隊久居駐屯地隊員による仮装行列
戦後の交通の発達により、久居では津、松阪などのベッドタウン化が進みました。全国的にも大都市周辺のベットタウンでは人口3万人を超える町が急速に増え、久居町も昭和40年には人口3万人を超える町となりました。町が市に昇格するには法律で人口が5万人以上と定められていましたが、全国3万人規模の33カ町により「新市制実現全国期成会」が結成され、当時の久居町長がその推進力となって強く働きかけたことにより、昭和45(1970)年に「三万市制特例法」が成立、同年8月に念願の「久居市」が誕生しました。
昭和45年の市政施行記念式典の様子
昭和58年ごろの久居駅西口の様子
平成9年の久居駅西口の様子
旧駅舎の奥に建設中の現在の久居駅が見えます。
平成18(2006)年に10市町村が合併し、久居のまちづくりは新津市へと引き継がれました。平成27年度から始まった「久居駅周辺まちづくり事業」が令和2年5月に完了し、津市の副都市核にふさわしい姿に生まれ変わります。
・久居駅西口広場
高齢者や障がい者の方にも配慮した乗降場を新設し、渋滞緩和のためロータリーを整備し直しました。また、バス待合所の改築も行いました。
駅西口広場ロータリー
障がい者用乗降場
バス待合所
・久居駅東口広場
通勤、通学で駅を利用する方の利便性の向上を図るため、東口駅前ロータリーを整備しました。通路に屋根を新たに設置し、駅の改札まで雨に濡れずに通行できるようになりました。
駅東口広場ロータリー
屋根が設置された通路
・市道新町野口線
陸上自衛隊久居駐屯地との用地交換により、南北をまっすぐに貫く道路を整備しました。見通しも良くなり、東口へのアクセスがより便利になりました。
・久居駅東口公共自転車等駐輪場
自転車と原動機付自転車、合わせて510台停めることができます。管理人が駐在し、監視カメラも設置しているため防犯面も安心してご利用いただけます。
ご利用は定期使用のほか、一日単位でも可能です。
・久居駅東口市営駐車場
陸上自衛隊久居駐屯地との用地交換により、200台以上駐車可能な市営の有料駐車場ができました。
・防災広場
(令和2年5月完成)
災害時の帰宅困難者など久居駅周辺利用者の支援活動が円滑に行えるよう、一時的な避難場所として活用できる広場を整備しています。大型のエアテントを4基設置できるスペースがあり、防災備蓄倉庫や耐震性貯水槽、マンホールトイレが整備されます。
完成間近の防災広場
・津市久居アルスプラザ
令和2年10月1日グランドオープン!
旧久居市役所跡地に新たなランドマークとして誕生する「津市久居アルスプラザ」。720席を有する「ときの風ホール」をはじめ、展示会や小規模の演劇・コンサートなどが開催できる「アートスペース」、大きな作品にも対応できる本格的な展示スペースの「ギャラリー」、バンドの練習だけでなく演奏の録音もできる「バンドルーム」のほか、さまざまな活動の場となる「カルチャールーム」なども備え、幅広いニーズに応えることができます。
また、住民票などの証明書の交付を行う「市民サービスコーナー」やゆったりとした時間を過ごしていただける「カフェ」もあります。
まさに、音楽や演劇、アートなど文化芸術の拠点として、また、コミュニティの場として、さまざまな人にご利用いただけます。
オープンが待ち遠しい津市久居アルスプラザ
初代藩主高通公は、軍学者 植木升安(うえきしょうあん)に築城設計を命じました。当時、大名の築城は幕府にとっては重大な問題であり、厳しく制限されました。植木が最初に作った設計図は軍事色が強かったため、幕府より設計変更を命じられました。その後、書き直した設計図が認められ、寛文10(1670)年10月に久居城の建設が始まりました。
昭和55(1980)年に旧家臣箕浦家で「久居開闢旧図(ひさいかいびゃくきゅうず)」と上書きされた包紙の中から「久居外構要害図」が発見され話題となりました。
この図によると、町の周囲に大きな堀と、その内側に高さ二間の土塁が巡らせており、要所に櫓(やぐら)をもち、大手門の前に大きな丸馬出(まるうまだし)、内部は直進を阻止する空間を作るなど、優れた設計となっています。また、大手には後の北海道五稜郭に見られる西洋風の三角塁があり、先進的な要素も取り入れられています。
この設計の久居城は幻となってしまいましたが、この図には修正箇所も書き込まれており、築城の交渉途上が読み取れる貴重な資料となっています。
「久居外構要害図」(久居ふるさと文学館所蔵)
藤堂高通公は津藩初代藩主藤堂高虎公の孫に当たり、正保元(1644)年11月に津2代藩主高次公の次男として津城で生まれました。幼名を学助といい、6歳の時から江戸屋敷で暮らしました。13歳の時、初めて徳川4代将軍家綱(いえつな)に目通りが許されましたが、その時の立ち居振る舞いが大人も及ばぬ立派さであったと列席した諸大名が賞賛したといわれています。
寛文9(1669)年9月29日に幕府より5万石の分領が認められ、翌年に城下町が建設されると、寛文11(1671)年7月8日に高通公は江戸を出発し、同月17日に久居藩初代藩主として入城しました。この時、高通公は27歳でした。
特に学問を好んだ高通公は、京都から平井友賢(ひらいゆうけん)を招いて、藩内の文教の基礎を作りました。
また、和歌や俳句を好み、久居に入城した年に歌人の北村季吟(きたむらきぎん)らを招いて俳席を催しました。高通公自身は任口(にんこう)と号して名句を多く残し、その著書に「久居八百五十韻」があります。
元禄10(1697)年8月9日満52歳で没し、寒松院(寿町)に葬られています。
初代藩主藤堂高通の木像(玉せん寺所蔵)
高通公直筆の和歌(久居八幡宮所蔵)
久居藩歴代藩主の墓 注:手前が高通公の墓(寒松院)
小屋家は久居藩ができた当初に、津藩から久居に移り住んで医業を開業しました。久居城下の町医として藩の上下を通して好評となり、その治療技術の精妙さは藩主の耳にも入りました。藩から典医に命じられましたが、「医は万民救済が天賦であるから、今ここで城中に上がれば幾多の患家から離れてしまい、窮民は困ってしまうだろう。君命には背くけれども医は万民の病苦を治療するのが本分である。」と固辞しました。
藩主もこれを理解し、典医であるとともに町医としても、その生涯を万民のためにつくしました。
その後家業は延庵の名を世襲で受け継ぎ、5代延庵のころには他藩にもよく知られ、「久居に過ぎたるものは子午の鐘と小屋延庵」とうわさをされたほどでした。
須ケ瀬村出身で、元禄2(1689)年5代目渡辺六兵衛好法のとき、江戸で酒店を開き、渡辺家豪商の基礎を築きました。
6代六兵衛好信のときに渡辺家は全盛を迎え、久居藩の藩士にとりたてられました。その財力で藩政に大きく貢献するとともに、貧民を助け、社寺の修理や道路の整備を行うなど、地域のためにもつくしました。
また、好信は須ケ瀬村と江戸をよく往復し、安永3(1774)年に伊勢街道から東海道への分岐点である日永追分(四日市市)に大鳥居を寄進しました。当時の浮世絵には、この鳥居を中心にした風景が数多く描かれています。
橘南谿は宝暦3(1753)年に久居で生まれ、19歳で京都にのぼり医学を学びました。
30歳のころから日本各地を旅行して見聞を広め、寛政7(1795)年に刊行した「西遊記」、「東遊記」の紀行文は多くの人々に読まれました。その中では、長崎でオランダの優れた天文学、科学に感銘を受け、測量器を作って旅行中に天体観測を行ったり、エレキテルを模して発電機を作ったりと、幅広い研究を進めた様子がうかがえます。
長崎に「解体新書」が伝えられて約10年後の天明3(1783)年、南谿は解剖医学の正誤を確かめるため、京都伏見の牢屋で死刑囚平次郎の死体解剖を行いました。この解剖は、画家が参加し記録に残したことと、医者自らが解刀し研究を進めた点で特筆すべきことであり、「平次郎解剖図」として日本医学の重要な資料となっています。
また、南谿はこの後にも解剖に参加し、日本で最初の解剖術式に関する医書「解体運刀法」を著しました。この本の中で、「解剖は不浄なものではなく、罪人であっても丁寧に扱わなければならないこと。解剖は一人の犠牲ですみ数千人の人命を救うことになる。」と解剖学の本質を述べています。
橘南谿木像(久居ふるさと文学館所蔵)
南谿の医学書(久居ふるさと文学館所蔵)
久居は高台に開けた町のため大火が繰り返され、記録によると江戸時代に7回、大火の被害を受けています。中でも、文政4(1821)年の大火は「久居焼け」と呼ばれるほど大きな被害がありました。
文政4年3月20日昼ごろ、現在の中町の民家から出火。家の主の常次が江戸へ出掛けた留守中に、その妻がかまどに火を炊いたまま、二人の子どもを連れて近所で立ち話をしていました。妻が家に戻ると、屋根の隙間から煙がくすぶり、台所が一面の火の海に。折からのからっ風にあおられ、火の粉は侍屋敷に広がり、大火となりました。常次の妻は、混乱に乗じて子どもを連れて逃げてしまいました。
この大火は、現在の西鷹跡町の東北から東鷹跡町、幸町、万町、旅篭町、本町一丁目から四丁目、二ノ町の久居八幡宮を全焼し、二ノ町一、二、三、四丁目の24戸で止まり、玉せん寺の本堂、お霊屋等を全焼し、約5時間燃えてようやく鎮火しました。
まちの再建には奉行所が炊き出しを行い、被災した民家には一戸当たり米二俵と、建築用の木材などが与えられました。
また、この大火の後、日出海屋甚平(ひのみやじんべい)という商人が火事を防ぐ目的でみかん林を作りました。現在の「密柑山」の地名の由来とされています。
久居焼け図(津・久居の歴史刊行会編「図説 津・久居の歴史 上巻」より)
安政5(1858)年に久居本町で生まれ、若くして久居小学校(現在の誠之小学校)校長となり、その後桑名郡長を務めましたが、病により辞職し、療養のため上京しました。その間に、鉄道の祖といわれた雨宮敬次郎と知り合い、津~久居間の鉄道敷設に尽力し、軽便鉄道の開通につながりました。また、陸軍連帯の招致にも成功し、久居のまちの発展に大きく貢献しました。その後は、県会議員として県政に貢献し、大正3(1914)年に57歳で亡くなりました。
昭和3(1928)年にその功績をたたえた顕彰碑が建てられ、現在の高通公園に佇んでいます。
桜と玉井丈次郎彰徳碑(高通児童公園)
玉井丈次郎彰徳碑 碑文訳 (三ツ村健吉著「三重の碑百選」より)(PDF/154KB)
久居駅東口の緑の風公園に「上野英三郎博士とハチ公」の銅像があります。
有名な「忠犬ハチ公」の飼い主である上野英三郎博士は、明治4(1871)年に久居元町に生まれ、東京帝国大学教授で農業土木・工学を専門として全国の耕地整理の指導的役割を果たした人物です。
博士はそれまでの伝統的な区画整理を批判し、「最小の労力で最大の収穫を確保する」ことに重点を置いた近代的な区画理論を提唱しました。しかし、当時の土地制度では実現が困難で、60年以上後の昭和30年代に全国各地で「標準区画」が採用されてようやく実現しました。
博士の著書である「耕地整理講義」は、農業土木を学ぶ人々にとって長くバイブルとして位置づけられました。また、農商務省兼任技師として全国各地で技術指導を行い、多くの技術者を育てました。
博士は53歳のときに大学での講義中に倒れ急逝します。帰らぬ主人を待ちわびるハチの物語が後に有名になりました。
久居元町にある法専寺に博士の墓碑が建っています。
上野英三郎博士とハチ公の像(久居駅東口緑の風公園)