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河芸地域を流れる田中川の中流域、国道306号三行交差点から東の標高40メートルほどの丘にある、三行城跡。この城跡は道路建設や水田整備などによって、当時の姿からは随分形を変えていますが、航空写真や過去の発掘調査の成果等からある程度想像することができます。
かつて三行城には、西に開いた谷を囲むように、郭[くるわ]と呼ばれる1辺が約10メートルから40メートル前後の平らな区画が複数ありました。郭は主に5つ(三行城実測図中1から5)に分けられ、それぞれ敵からの防御のため、尾根筋には堀切が設けられていましたが、今は郭2が残るのみです。
昭和59年に行われた発掘調査では、郭3と4でわずかに14世紀代の愛知県渥美半島産の甕[かめ]や土師器[はじき]が出土しましたが、土塁や土壇が見つかった他に建物の跡はなく、生活の場というより緊急時の備えのために造られた城とも考えられます。城の構造は比較的簡素で、出土遺物の時期から南北朝時代に造られたことがうかがえます。築城した人物が誰かは分かっていませんが、美里町北 長野にある同時代の長野氏城跡とは、規模は異なるもののよく似た構造をしています。
時が流れ戦国時代になると、分部氏がこの一帯を治めるようになります。ただ、分部氏との関わりも含め、永禄11年(1568年)からの織田軍による伊勢侵攻以降も、直接この城に関わる資料は知られておらず、南北朝時代から戦国時代にかけてこの城が果たした役割も、詳しくは分かっていません。
田園を抜ける風に包まれながら、往年の城の姿を想像してみてはいかがでしょうか。
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