江戸川乱歩〈本名平井太郎、明治27(1894)年~昭和40(1965)年〉は、わが国探偵小説の先達として活躍し、今でもその作品が読み継がれている作家であることはよく知られている。
この乱歩が、実は津にゆかりがある。「私の本籍は三重県津市にあるが、一度も住んだことがない。祖父の代まで藤堂の藩士で、津市に住んでいたが、父は郷里を離れて、大阪の関西大学を出、しかし、最初の就職は同じ三重県の北部の名賀郡の郡書記で、同郡の名張町(現在の名張市)に二年ほど住んだ。父はそこで津市から母を迎え、明治二十七年に私が生まれたが、生まれると問もなく、父は同県亀山町(現在の亀山市)の郡役所に転勤になったから、この生まれ故郷の名張も、私は全く見知っていないわけである。本籍の津市には私の家の墓もあり、親戚も多く、幼少年時代には、よく遊びに連れられていったものだが、その親戚もだんだん少なくなり、今度の戦争で、市の大半が焼けたので、今では親戚も一、二軒になっている」(「探偵小説四十年」)という。津は祖先の地で、名張は生誕の地であるが、育ったのは名古屋であるから、どちらも「故郷という感じには乏しい」と述懐している。
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乱歩は、父の店が破産したので早稲田大学予科に入って苦学し、卒業すると大阪の貿易商に勤めたが長続きしなかった。そのころ、最初の放浪がある。後のことになるが、奥さんに下宿屋をやらせたのは、この放浪癖が現れても困らないようにするためであった。
処女作「二銭銅貨」く大正12(1923)年〉を発表して、作家になるまでには、多種多様、20余りの職業遍歴がある。古本屋、中華そば屋、市役所吏員、新聞記者などである。三重県の関係では、鳥羽造船所電機部社員として勤めている(大正6(1917)年11月~8(1919)年1月)。しかし、作家としてはその経験は貴重で、作品に役立てている(「D坂の殺人事件」の古本屋は有名)。
そんな作家出発であるが、大正末からずっとその生涯を通じて、近代推理小説ジャンルの確立に挺身(ていしん)した。その文学素地は乱歩自身がいうように、その肉親から受け継いでおり、父からはその自由主義、論理好き、要点把握力、母の夢や芸の心、母方の祖父の趣味生活、放浪癖など、どれも乱歩にその片りんを見る。つまりは、乱歩の気質は津との血縁につながるということができる。
乱歩の平井家の菩提寺は乙部の浄明院であり、乱歩建立の先祖代々の墓がある。乱歩は生前何度か墓参に訪れ、彼の「知勝院幻城乱歩居士」の戒名も、生前、浄明院の住職に自分でも希望を述べてつけてもらったものである(乱歩の墓は、分骨され東京にも墓所が設けられている)。
「貼雑年譜」 手紙や雑誌の切り抜き、新聞記事などをはり込み、乱歩の生いたちからの記録が綴られている |