これらのはがき絵は、「昭和の蜀山人」といわれた画家・西田半峰が、戦後、疎開先の榊原(久居榊原町)から各地の知人にあてて書き送ったものです。 西田半峰は、明治27(1894)年、一志郡七栗村(現在の久居森町)に生まれました。6歳のころ、横浜に移り住み、若くして文展(現在の日展)に入選するなど、才能を発揮。中国大陸を旅行して帰国した後、東京で画廊を開き、わが国第1号の画商となりました。 また、「エッチング」という新しい画法の研究に取り組み、その普及に努めたことから、「エッチングの父」とも呼ばれました。 昭和20(1945)年、戦災により郷里に近い榊原に疎開した半峰は、終生この地にとどまることを決意。「絵というものは壁に飾ってながめるものではなく、手にとって楽しむもの」という信念のもと、昭和27(1952)年1月1日から、はがき絵などの普及を目指して全国の親しい友人たちにはがきを書き送りました。 東京へ戻るようにとの周囲の誘いには決して耳を貸さず、昭和36(1961)年7月26日に67歳で亡くなる直前までに書き送ったはがきの総数は2万6,744通。目標は5万通だったといわれています。 |
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