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河芸地域から鈴鹿市南部にかけての丘陵には、古墳時代後期(6・7世紀)から奈良時代に須恵器と呼ばれる土器を焼いた、徳居窯跡群[とくすえかまあとぐん]と呼ばれる窯跡があります。徳居窯跡群は、38基の窯跡(消滅したものを含む)が確認されていて、三重県下でも最大規模の須恵器の一大生産地でした。
須恵器は、古墳時代中期(5世紀前半)に朝鮮半島から日本へ伝来し、平安時代ごろまで生産された土器で、窯の中で密閉された状態で焼かれるため、青灰色や灰色をした非常に硬い焼き物です。
昨年、住宅地造成に伴って徳居窯跡群のうち、10号窯跡の発掘調査を行いました。窯跡は、西側に開けた谷の斜面をトンネル状に掘り込んで造られ、窯の長さは7メートル以上、幅は2.2メートル、高さは1.3メートルありました。1,000度以上の高温で焼かれた窯の周りが真っ赤に焼け締まっていることが確認でき、その生産の様子が明らかになりました。
この須恵器の生産と深く関わっていると考えられるものに、市指定有形文化財の合口甕棺があります。これは、昭和33年に河芸町みゆきの丘陵にある畑地から出土した埋葬用の大型の土器で、7世紀ごろのものと考えられています。ドーム型の蓋と砲弾のような形をした身がセットになっていて、棺の蓋は口径57センチメートル、高さ37.2センチメートル、身の部分は口径53センチメートル、高さ74.5センチメートルで、大人一人が入れるほどの大きさです。このほかに付近からは、方筒状土製品と呼ばれる普通の古墳では見られない特殊な須恵器が出土していて、須恵器を製作した工人が深く関わっていると考えられています。
現在、この合口甕棺は、河芸図書館の資料展示室で見ることができます。実際に間近で見ると、このような大きな陶器製の棺を、薄く頑丈に造り上げることのできた、当時の技術の高さをうかがい知ることができるでしょう。
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