つまつりってどんなまつり?

登録日:2016年2月25日

 
津まつりってどんなまつり?イラスト
 


★津(つ)まつりのようす★
 

最近(さいきん)の津まつりでは、 国道23号やフェニックス通りを練(ね)り歩(ある)くパレード注:や伝統芸能(でんとうげいのう)はもちろん、フリーマーケットやバザー、アマチュアバンドの演奏(えんそう)など、たくさん見(み)るところや参加(さんか)するところがあります。 年々(ねんねん)盛(さか)んになってきている安濃津よさこいも色々(いろいろ)な会場(かいじょう)で行(おこな)われています。1日目(にちめ)も2日目もまつりの最後(さいご)は「総踊り(そうおどり)」でみんな盛(も)りあがります!

注:みんなに見てもらうために練り歩くので“練り物(ねりもの)”とよばれています。学校のマーチングバンドや日本最大級の山車「安濃津丸」など色々(いろいろ)あります。一部の練り物については「練り物について」でくわしく紹介(しょうかい)しています。

 

▼大(だい)パレードの高虎時代絵巻(たかとらじだいえまき)

高虎時代絵巻の写真

▼お城公園(おしろこうえん)のフリーマーケット

フリーマーケットの写真

▼みんなで総踊り(そうおどり)

総踊りの写真


★津(つ)まつりの歴史(れきし)★
 

★津まつりのはじまり
「津まつり」は、津八幡宮(つはちまんぐう)の祭礼(さいれい)がもとになっていて、360年(ねん)以上(いじょう)前(まえ)から始(はじ)められたと言(い)われています。
津八幡宮は、津藩(つはん)第2代(だいにだい)藩主(はんしゅ)の藤堂高次(とうどうたかつぐ)が八幡宮(はちまんぐう)を結城の森(ゆうきのもり)に移(うつ)し、新(あたら)しく社殿(しゃでん)を建(た)て、家(いえ)の先祖(せんぞ)の藤堂高虎(とうどうたかとら)の霊(れい)を祀(まつ)りました。
そして、毎年(まいとし)祭礼が行(おこな)われるようにと、高次は八幡宮に銀子(ぎんす)10貫目(かんめ)を寄付(きふ)して町(まち)の人(ひと)に貸(か)し出(だ)し、その利息金(りそくきん)を祭礼の費用(ひよう)にしました。このようにしたことから祭礼は盛大(せいだい)に行われるようになったのです。

★津まつりのうつりかわり
江戸時代(えどじだい)のはじめは、それぞれの町が仮装(かそう)や作り物(つくりもの)で行列(ぎょうれつ)をつくり、町内(ちょうない)を練(ね)り歩(ある)きました。大名行列(だいみょうぎょうれつ)や山伏(やまぶし)などの「もの真似(まね)」が多(おお)かったようです。江戸時代の後半(こうはん)は山車(だし)行列が多くなりました。
明治時代(めいじじだい)にはまつりが中止(ちゅうし)されたことがありましたが、明治時代のおわりごろには、からくり人形(にんぎょう)山車や芸妓踊り(げいこおどり)などがでてきました。
大正時代(たいしょうじだい)にはそれぞれの町が、せり上(あ)げ式(しき)の山車と仮屋台(かりやたい)の囃子方(はやしかた)がいっしょになってやる出し物や行列で、津の祭礼のもっとも華(はな)やかな時(とき)になりました。
 

 

からくり人形の山車の写真
▲からくり人形の山車
踊り屋台の写真 
▲踊り屋台

戦後(せんご)は昭和20年(1945)戦争で山車や屋台が焼(や)けてなくなってしまったため、まつりはずいぶん変わりました。昭和(しょうわ)43年(1968)からは「津まつり」として、10月9日~11日の3日間に行われるようになり、大名行列や市民総おどりなどもするようになりました。
現在(げんざい)もまつりは少しずつ変わっていますが、分部町(わけべまち)の唐人踊(とうじんおどり)や津民芸保存会(つみんげいほぞんかい)によるしゃご馬(うま)、入江和歌囃子(いりえわかばやし)、八幡獅子(やわたじし)は戦前(せんぜん)の祭礼のふんいきが味(あじ)わえます。 
 

★練(ね)り物(もの)について★


★唐人踊(とうじんおどり)[県指定無形民俗文化財(けんしていむけいみんぞくぶんかざい)]
 

唐人踊の写真

江戸時代に朝鮮(ちょうせん)から幕府(ばくふ)へ派遣(はけん)された使者(ししゃ)(朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし))の身なりをまねていると伝えられています。
喜怒哀楽(きどあいらく)の面(めん)をつけ、黄(き)・白(しろ)・赤色(あかいろ)の上着(うわぎ)、虎皮模様(とらがわもよう)のズボン、笠(かさ)、わらじをつけて、ラッパや笛(ふえ)、鉦(かね)、太鼓(たいこ)の囃子(はやし)で町を練り歩きます。行列は、ラッパ2人、踊り1人、笛2人、鉦2人、太鼓3人の計10人の役唐人(やくとうじん)と大将(たいしょう)、旗持ち(はたもち)などをあわせて全員(ぜんいん)で20人ぐらいです。そして、その唐人らの周(まわ)りを町内(ちょうない)の者(もの)が警固(けいご)します。
両腕(りょううで)を胸(むね)の前(まえ)におき、天(てん)を仰(あお)ぎながら跳(は)ねるように前進(ぜんしん)、両腕を広(ひろ)げて腰(こし)をかがめた後(あと)、跳ねるように後退(こうたい)するコミカルな踊りで、歓喜踊り(かんきおどり)とも呼(よ)ばれています。
行列に使(つか)った衣裳(いしょう)や楽器(がっき)、小道具(こどうぐ)は昭和20年(1945)の戦争で焼けてなくなりましたが、大幟(おおのぼり)1流(りゅう)だけは別(べつ)に保管(ほかん)していたため今も残(のこ)っています。
 

★しゃご馬(うま)[市指定無形文化財(ししていむけいぶんかざい)]
 

しゃご馬の写真

戦後(せんご)の祭礼の寂(さび)しさを嘆(なげ)いて昭和41年(1966)津民芸保存会(つみんげいほぞんかい)が結成(けっせい)され、入江和歌囃子(いりえわかばやし)、続(つづ)いて八幡獅子、しゃご馬が復活(ふっかつ)しました。
なかでも、しゃご馬は津の祭礼に古(ふる)くから登場し、江戸時代前期には萱町(かやまち)(現在の万町(よろずまち))の「石引(いしひき)」につく「籠馬(かごうま)のり」として、後期には万町の「豊公出陣(ほうこうしゅつじん)」につく「籠馬武者(むしゃ)」として警固役(けいごやく)をつとめています。明治より後では2、3の町の独立(どくりつ)した練り物として登場するようになりました。江戸時代には、袖鎧(そでよろい)を着(き)た立派(りっぱ)な騎馬武者姿(きばむしゃすがた)でしたが、明治・大正・昭和初期には鎖帷子(くさりかたびら)風(ふう)の刺し子(さしこ)襦袢(じゅばん)を着た軽装(けいそう)となり、現在では陣羽織(じんばおり)を着ています。
 

 

★入江和歌囃子(いりえわかばやし)
 

入江和歌囃子の写真

明治時代中頃(なかごろ)、入江町(いりえちょう)に伝(つた)わる囃子踊り(はやしおどり)に神田囃子(かんだばやし)(馬鹿囃子(ばかばやし))のおもしろさをつけ加(くわ)えてできたものです。山車の上(うえ)では“ひょっとこ”のお面(めん)をつけた人が「釣(つ)り踊(おど)り」をします。
 

 

★八幡獅子(やわたじし)
 

八幡獅子の写真

江戸時代初期(しょき)の記録(きろく)『勢陽雑記(せいようざっき)』に、「獅子頭二箇」とあり、祭礼行列の後(うし)ろで神輿(みこし)の先(さき)にたって導(みちび)いていく役(やく)として登場(とうじょう)しています。津まつりでは金色の獅子頭(ししがしら)が華(はな)やかで、目(め)をひきます。

 

★安濃津(あのつ)よさこい

安濃津よさこいの写真

安濃津よさこいは、北海道札幌市(ほっかいどうさっぽろし)のYOSAKOIソーラン祭りや高知県高知市(こうちけんこうちし)のよさこい祭りを参考(さんこう)にし、平成10年の津まつりではじめてよさこいがひろうされ、平成11年「第1回安濃津よさこい」として開催(かいさい)されました。
20~150人(にん)でチームをつくり、鳴子(なるこ)を持(も)って地元民謡(じもとみんよう)のフレーズを含(ふく)んだ曲(きょく)にあわせて踊り、競争(きょうそう)します。こどもでも大人(おとな)でも、男(おとこ)でも女(おんな)でも、誰でもできます。衣装(いしょう)や振付(ふりつけ)、音楽(おんがく)は自由(じゆう)で、それぞれのチームはいろいろと工夫(くふう)して津まつりを盛り上げています。

 

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