北畠氏・多気関連年表

登録日:2016年4月4日

北畠氏・多気関連年表

西暦

元号

当主

出来事

発掘の成果

1336 延元元
建武3
  北畠親房、伊勢入国。田丸城を拠点とする。
 
 
1342 康永元 顕能 8月、田丸城落城。(「波多野貞夫氏所蔵文書」)  
1392 明徳3   南北朝合一  
1403 応永10 顕泰 北畠関連としての「多気」の史料上の初見。
(「醍醐枝葉抄」)
 
1414 応永22 満雅

北畠満雅、幕府に対して挙兵。幕府軍の勝利に終わり、多気まで攻め込まれるが、満雅は幕府と和議。
(「満済准后日記」)

 
1428 正長元  

後亀山天皇の孫小倉宮、伊勢国に出奔。「国司在所多気」の奥、「興津」に入る。(「満済准后日記」)
満雅再び挙兵。(「満済准后日記」)
12月に戦死する。(「師郷記」等)

 
1430 永享2

顕雅

教具

満雅の弟顕雅、満済、赤松満祐の仲介により将軍足利義教と対面。(「満済准后日記」)
教具、叔父顕雅より家督を継ぐ。(「満済准后日記」「建内記」)

 
1441 嘉吉元  

赤松満祐、将軍足利義教を殺害(嘉吉の乱)。赤松氏滅亡、満祐の子教康は伊勢国司を頼るが、これを匿わず、誅殺する。(「建内記」)

北畠氏館跡整地2と
石垣SA25・28、入口跡を造営。 
北畠氏館跡前期

1453 享徳2  

この頃、本格的な神三郡支配に乗り出す。(「氏経卿引付」)

 
1467 応仁元  

応仁の乱。将軍足利義政の弟義視、応仁の乱時に伊勢に下向、小倭の常光寺で国司教具と対面。(「応仁記」)

 
1471 文明3 政勝

北畠政勝、父教具の死去により家督を継ぐ。(「内宮引付」「大乗院寺社雑事記」など)

 
1479 文明12   北伊勢で長野氏と合戦するが、大敗。(「大乗院寺社雑事記」「氏経神事記」)  
1497 明応6 具方

木造政宗が北畠帥茂(具方の異母弟)と結び反乱。(「大乗院寺社雑事記」「大乗院日記目録」)

 
1499 明応8   北畠氏の多気館ことごとく焼失する。(「大乗院寺社雑事記」)

北畠氏館跡後期整地この後か
六田館跡初期の整地
北畠氏館跡後期

1500 明応9   多気館再建。(「大乗院寺社雑事記」)
1517 永正14 晴具

父具方の死により国司家を継ぐ。
北畠氏館跡庭園は、この頃造られたと伝えられる。

 
1539 天文6 具教

この頃具教家督を継ぐ。この頃領域を拡大するが、永禄に入り、領域内志摩、宇陀での軍事的緊張高まる。(「澤氏古文書」など)

 
1562 永禄5 具房 この頃北畠具房家督を継ぐ。(「浄眼寺文書」)  
1569 永禄12 具豊
(信雄)

織田信長南伊勢に侵攻、天花寺城・阿坂城・大河内城にて北畠具教と戦う。
信長の次男茶筅丸(北畠具豊、信雄)を北畠氏の養子とし、和睦。(「信長公記」「多聞院日記」)

 
1576 天正4  

具教、信長により殺害され、北畠氏滅亡。多気も滅亡か。
(「公卿補任」「勢州軍記」など)

 
 

 

 

多気北畠氏遺跡とは 発掘調査から 出土品は語る パンフレット類

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