「広報津」第340(音声読み上げ)津市人権教育広報 あけぼの 第28号

登録日:2020年2月16日

このページは、音声読み上げソフトウェアに対応するため、語句のなかで一部ひらがなを使用しています。


折り込み紙3

津市人権教育広報 あけぼの 第28号

令和2年2月16日発行

教委人権教育課 電話番号229-3253 ファクス229-3017

全ての人にとって生きやすい社会をつくるために ハンセン病問題を通して

皆さんは映画もののけ姫の中に、ハンセン病患者が描かれているのをご存知ですか。もののけ姫など数々のアニメ作品の監督として世界中に知られる宮崎駿さんは、ハンセン病に対する偏見や差別について、私たちに問い続けてきた一人です。宮崎監督は、国立ハンセン病療養所を訪れて回復者から思いを聞いたり、納骨堂に立ち寄ったりすることを重ねる中で、ここで生きようとした人々のことを描かなければならないと思ったと語っています。

ハンセン病に対する社会の無知や誤解、無関心、また、根拠のない恐れから、これまで多くの回復者やその家族までもが、ハンセン病に対する偏見に苦しんできました。残念ながら、その苦しみが今もなお続いていることは、平成20年に制定され、昨年11月22日に一部改正されたハンセン病問題の解決の促進に関する法律からも明らかです。

今回のあけぼのでは、ハンセン病回復者や家族に対する差別や偏見がなぜ生まれ、なぜ今日まで残ってきてしまったのか、その事実を知り、その事実から学び、今の社会、そしてこれからの社会を構成していく私たち一人一人が、全ての人にとって生きやすい社会をつくるために、どのように生きるのかを考えるきっかけにしたいと思います。

人権コラム ハンセン病に対する差別や偏見をなくしていくために

ハンセン病は、らい菌に感染して起こる病気で、かつては、らい病と呼ばれていました。らい菌は感染力が弱く、現在の日本のような生活環境ではほとんど発病することがないことや、現代では治療法も確立され、完治する病気であることが、厚生労働省のパンフレットにも明記されています。

しかし、これまでハンセン病は不治の病や恐ろしい伝染病のように見なされ、政府によるハンセン病患者への隔離政策は、明治40年のらい予防に関する件の制定に始まり、平成8年にらい予防法が廃止されるまで90年近くも続きました。また、昭和23年に制定された旧優生保護法による断種政策も平成8年まで続きました。

こうした政策によって、ハンセン病元患者・回復者の皆さんは、大切な家族と引き裂かれ、結婚しても子どもを産むことが許されず、故郷に帰るのもままならなかったのです。ハンセン病になったというだけで、人が人として生きる権利を奪われたこれらの事実を皆さんはどのように受け止めますか。

これらの事実の背景には、ハンセン病に対して、ただ単に理解不足であっただけでなく、長年にわたる隔離政策によって、私たちの中にハンセン病に対する誤った認識が定着してしまっていたことや、自分には関係ないといった意識があるのではないでしょうか。

平成29年8月に津市が実施した人権問題に関する市民意識調査によると、ハンセン病元患者に対する偏見や差別は、今でも残っているかという問いに、そう思う(13.8パーセント)どちらかといえばそう思う(23.9パーセント)を合わせると約4割の人がハンセン病元患者への差別意識が残っていると感じています。

私たちは、二度と同じ過ちを繰り返さないためにも、ハンセン病元患者・回復者、そして、その家族の皆さんが受けてきた筆舌に尽くしがたい苦しみを理解し、そこから学ぶことで、社会にある差別や偏見をなくしていかなければなりません。

旧優生保護法とは

特定の疾病や障がいを理由に、優生思想の下、不良な子孫の出生を防止するという目的で、優生手術(不妊手術)や人工妊娠中絶が行われました。平成8年に、母体保護法に法律名が改正され、優生思想に基づく規定が削除されました。(引用先 厚生労働省ホームページなど)

ハンセン病問題の解決に向けて

岡山県にある国立ハンセン病療養所 邑久光明園、長島愛生園に入所している回復者の思い、そして、ハンセン病問題の解決に向けた活動やそこにある願いを通して私にできることを考えてみませんか。

ハンセン病回復者の思い

邑久光明園 榎本初子さん

私は伊賀市で生まれ育ちました。12歳の時に邑久光明園に入所しました。故郷について思い出されるのは、路地裏で遊んでいたこと。そして、上野城や上野公園がすぐそばにあり、いつもその美しい姿を見ていたこと。そんなことが今でも心に残っています。

結婚と同時に療養所を出て大阪で暮らし始めました。十数年、必死で働き、貧しかったけれど、充実した生活を送っていました。しかし、病が再発し、再入所することになりました。勤め先や友人に病気のことや移転先のことを明かすことはできず、その人たちとの大切な関係を自ら断つことは、本当に辛く、苦しかったです。まだまだ自分の病のことを話せるような社会ではないと感じていたからです。

しかし、邑久光明園に戻ってきて、驚いたことがありました。地元の人たちが、多く園に携わっていることでした。以前は、医師や看護師以外では、地域の人を見ることはなかったからです。多くの人たちが、療養所の生活の改善、回復者への偏見や差別をなくしていこうと、運動を続けてきたからだと思っています。

長島愛生園 川北為俊さん

私は三重県に生まれ、13歳の時に長島愛生園に入所しました。それから75年、ここで暮らしてきました。昔、入所者の友と一緒に、コーヒーを飲もうとある店に入った時、私たちには飲ませてくれなかったことがありました。本当に悔しくて、たまらなかったです。

長島愛生園を訪れる人がとても多くなってきています。そのように私たちのことを正しく知ってもらうことが、本当に大切だと思っています。

長島愛生園 川北為俊さんの妻

体には後遺症がありますが、自分がしたいことをしたいと思い、パソコン教室に通いました。以前はそのような勇気は持てなかったと思います。そう思えるようになったのは、徐々にではあるけれど、私たちに対する人々の意識が変わってきていると感じたからです。

長島愛生園 吉田大作さん

この前、三重県の人が療養所のフィールドワークに来て、私に会いに来てくれました。自分の故郷、三重の人と聞くだけで、何か懐かしくええなぁと心が躍ります。

好きで病気になったわけではないし、そんな人は誰もいないのです。でも、回復者の家族に対する偏見や差別の話を聞くと、親や兄弟、親族に迷惑を掛けたのではないかと思うことがあります。

ある三重県出身の回復者夫妻

実家の近くに行くことはあっても、電話すらすることができません。私たちのことが周りに知られることを、家族は恐れていると感じているからです。私たちが故郷から遠く離れた地で暮らしている本当の理由を知らされていない家族もいます。私たちのことをきちんと知ってくれたら、きっと分かってくれるはずなのに。

市民と共に考える活動 絶たれたつながりの回復を

ハンセン病問題を共に考える会・みえ共同代表 岩脇宏二さん

平成21年にハンセン病問題の解決の促進に関する法律が制定されましたが、現状は何も変わっていないなと感じていました。自分たちにできることは何かないだろうかと思い、平成22年にハンセン病問題を共に考える会・みえを立ち上げました。ハンセン病回復者の芸術作品展などを行い、ハンセン病回復者が絶たれた家族や社会とのつながりを回復するために活動しています。

活動を続けてきたことで、この問題について関心を持ち、共に考えていこうとする人が増えてきています。子どもたちと共に学び、考えていこうとする学校の先生も増えました。また、いろいろな地域で住民の皆さんに話すことも増えてきました。ハンセン病回復者の思いやこれまでの歴史などを話すと新たに知ったことや学んだことを、自分も周りの人に伝えていきたいと話してくれる人も多くいます。回復者が高齢化する中、直接交流することを通して、問題の解決に向けて考える人を増やしていくことも続けていきたいと思っています。

活動を続けてきたことで共に考える人の輪は確実に広がっていると感じています。私自身、ハンセン病問題の本質は排除と孤立だと思っています。回復者だけでなく、その家族にも排除と孤立をさせ続けてきたのは、社会にいる私たち一人一人だということを忘れてはならないと思っています。

報道を通しての活動 同じ過ちを繰り返さないために

三重テレビ報道制作局長 小川秀幸さん

私がハンセン病問題の取材を始めたのは、らい予防法違憲国家賠償請求訴訟で原告が勝訴した平成13年。一度病気にかかったら終生隔離、そして子孫を残すこともできない。そんな歴史を知り、日本国憲法が施行されてからもこれほどの人権侵害が行われてきたのかと驚いたのがきっかけでした。

それから18年。三重県庁のハンセン病担当官の苦悩や療養所で暮らす三重県出身者の里帰り、戦争と病気との関係などを取材してきました。

回復者の多くが高齢化しており、亡くなっている回復者もとても多いのです。一度間違いを犯すと、本当に取り返しのつかないことになってしまうのです。

この問題の解消に向けて、もっと早く国が対応していれば、そして、私たちマスコミに携わる者をはじめ、市民一人一人が動きを起こしていれば、回復者を隔離し続けること、また、回復者やその家族に対する偏見や差別を残し続けることにはならなかったと強く感じています。

ハンセン病問題だけでなく、社会の中にある差別をなくしていってほしいこのような願いを多くの回復者から聞きます。これは、社会の中で生きる私たち一人一人に向けられているのだと感じています。

ハンセン病問題を語る時に人間回復というフレーズがよく使われます。それは、差別された側が権利を回復したという文脈で使われるのが普通でした。しかし、ある入所者はこう言いました。人間回復すべきは、果たして私たちの側なのでしょうかと。それは、差別と偏見を放置してきた社会の側が変わらなければならないという問い掛けでした。学習や訪問、交流など私たちができることは少なくありません。少しでも踏み出してもらえればと願って報道活動を続けています。

邑久長島大橋

隔離する必要のない証、人間回復の証として、入所者たちの強い要望で、2つの療養所がある長島に橋が架けられました。

現在は民間バスも乗り入れ、入所者も自由に島外へ出掛けられるようになっています。

邑久光明園納骨堂

周りから受ける偏見や差別への恐れから、遺骨の引き取り手もなく、亡くなってもなお故郷に帰ることができない多くの人々の遺骨が納められています。

シリーズ 学校・園では今 18 
誠之小学校の取り組み 6枚の油絵の向こうに

誠之小学校の玄関には、遠く離れた故郷の三重を思う釣り人が描かれた油絵など6枚の絵が飾られています。これらはハンセン病回復者の故・加川一郎さん(通称名)が生前に生きた証にと描いたもので、誠之小学校に寄贈されました。この絵が学校に寄贈されたことをきっかけに、毎年6年生がハンセン病問題について人権学習を進めています。今回のシリーズ学校・園では今では誠之小学校の取り組みについて紹介します。

加川一郎さんの油絵が故郷に帰るまで

加川さんは旧一志郡で教師として働いていましたが、ハンセン病を発症し昭和25年に岡山県瀬戸内市にある国立療養所長島愛生園に隔離されました。園内でも小学校の教師として、親から隔離された子どもたちを励まし続けていたそうです。

加川さんが亡くなった後、作品は、同園で知り合った同じ三重県出身の川北さん夫妻に託されます。二人が加川さんが好きだった子どもたちの声が聞こえる場所に返したいと、ハンセン病問題を共に考える会・みえ共同代表の岩脇宏二さんとハンセン病問題に取り組んでいる草分京子さんに相談し、誠之小学校に寄贈することになり、加川さんの絵は故郷に帰ることができたのです。

加川さん・川北さんが伝えたかったこと

昨年10月3日に行われた授業では、草分京子さんと誠之小学校元校長の馬場明生さんから、寄贈の経緯とともに加川さん・川北さんが伝えたかったことというテーマで学習が進められました。授業の中で、草分さんからハンセン病に関する知識や歴史、その中で偏見や差別があったことが紹介されました。川北さんは小学校5年生の頃から約70年間も愛生園での暮らしを続け、親の葬儀にも立ち会えず、家族も離散しました。それでも、故郷や家族に対する思いを抱き続けてきたこと、また、加川さんが絵に込めた故郷への思いについて話されました。そして、馬場さんからは、皆さんは差別や偏見がある社会としたいのか、それとも人と人が手をつなぎ、温かい社会をつくっていくのか、あなたたちは、どちらの立場に立って、どちらの生き方をしたいですかという問い掛けがありました。

授業を終えて

授業後、子どもたちからこれからあの絵をもう一度違う見方で見たい一人一人が思い込みで発言するのではなく、自分で確かめることが差別を無くすことにつながると思うといった感想が出されました。

担任の先生はきっかけとなったこれらの絵が、この学校にあってもなくても、この問題について学習する意義を感じています。子どもたちは、この学習を通して感じた差別や偏見に対する不合理を自分たちの身近な生活の問題と重ねて考えてきました。その中で自分たちが差別をなくしていく一員として行動したい、ハンセン病の問題も、解決していくために、自分たちのできることを考えている姿がありましたと話します。

社会・家族・故郷と隔離され、生きた証を残そうとした加川さんの生き様を学んでいる子どもたち。私たちも事実を正しく知り、その中で生きてきた人の思いや願いに学び、全ての人が安心して生活できる社会をつくるために大切にしたいことは何かを考え、行動していきませんか。


前のページへ

次のページへ

第340号の目次へ

このページに対するアンケートにお答えください

このページは見つけやすかったですか?
このページの内容はわかりやすかったですか?
このページの内容は参考になりましたか?

このページに関するお問い合わせ先

政策財務部 広報課
電話番号:059-229-3111
ファクス:059-229-3339