登録日:2024年8月16日
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広報津4月16日号と6月16日号では、江戸時代前期(寛永期)と中期(享保期)の城下の変遷をたどりました。今回は幕末に近い後期(嘉永期)の城下絵図を見ていきましょう。
嘉永期(1848年から1855年まで)に描かれたこの絵図の特徴は、城下の様子が紙面全体に模式的に描かれていることや、周囲の余白に津の町の歴史の概略をはじめ寺社や名所に関わる内容などが詳しく書かれていることです。
前期・中期の絵図同様に色分けされ、武家屋敷が灰色、藩の施設が薄紫色、町屋部分が朱色、道路部分が黄土色、そして海や川が青色に着色されています。また、描かれる範囲も拡大し、北は塔世橋を越えて四天王寺まで、西は八町通りと安濃川対岸の納所村までを描いています。
この絵図で最も特徴的なのが、文政3(1820)年に創立された藩校有造館が「御学校」として描かれ、東之丸と橋で繋がる場所にあることです。
藩校は、津藩9代藩主藤堂たかさとの治世に設立の志望があったものの、藩の財政難によって先送りされ、10代藩主藤堂たかさわの治世になって実現しました。藩主自ら節約して貯めた資金を基に建設経費を捻出し、校舎は起工からわずか1年で建設され開校に至りました。藩校設置には、困窮する藩の状況を回復させるためには何をおいても藩士の教育が第一と考えたたかさわの意志があり、本丸至近の場所での藩校建設は、初代督学(学事を監督する人)となる漢学者・つさかとうようの強い進言があったといわれます。
嘉永元(1848)年には、現在の西橋内中学校の場所に「演武荘」が設けられます。これは、全国各地への外国船来航などの影響で武備充実の向上が意識され、武術鍛錬に注力されるようになった時期にあたります。演武荘では武術の修練や操銃の訓練が行われ、藩校有造館とともに、藩士の文武両面の向上に貢献しました。
津城下はその後、時代転換の中で幕末を迎え、明治以降の県都へ転換する時代に向かいます。
廃城後の津城跡の変遷
「津城跡」に関する市民の皆さんのご意見を受け付けています。詳しくは市ホームページをご覧ください。
私の家族は、妻と高校1年生の娘の3人です。最近では、自己主張が強くなってきた娘との関わり方に悩んでいます。
娘は幼少期からバレエを習っていて、今でも放課後と休日にバレエのレッスンに通っています。そんな娘を見ていて、好きなことに打ち込み、継続して努力していることは応援したいという思いと、将来のために勉学を頑張ってほしいという思いの間で、どちらが娘のためになるのか常に気持ちは揺れ動いています。
娘が中学3年生の時、夏休み期間中にバレエの海外短期留学をする機会を得ました。これまでにも海外留学の誘いを何度か頂いており、娘はその度に行きたいと言っていましたが、留学先が政情不安定な地域だったことや、まだ幼かったことなど色々と理由をつけて、留学はさせていませんでした。
しかし、海外生活は、語学力向上や人生経験を豊かにするなどのメリットもありますし、何より娘がバレエを頑張ってきた結果として得た機会なので、思い切って送り出すことにしました。
娘にとって海外留学の体験は、とても得難いものになったようで、帰国後、「1年間の長期留学をしたい」と言い出しました。
当時の私は、娘の学歴のことを心配し、「とりあえず高校へ進学しなさい。高校に通いながら、海外留学の機会があればその時に相談に乗る」と話を打ち切ってしまいました。
しかし、当時の判断は本当に娘のためだったのだろうかとずっと悩んできました。バレエに限らず、身体能力を生かすアスリートの選手生命は有限ですし、負傷することもあるので、次の機会が訪れないかもしれません。学歴についてもその気になれば、本人の努力次第で何とかなったのではないかと思います。あの時、自分の考えを一方的に伝えるのではなく、娘の思いと向き合って、しっかり話し合うべきだったのかもしれません。
そこで二人きりの時に、当時のことや私の普段の言動について、娘に聞いてみました。娘からは「留学の件は特に気にしていないけど、いつも一方的に反対するし、厳しい。すぐ怒るから、お父さんにはお願い事がしづらい」などと言葉を選びながら言われました。
私の父は厳しい人で、私の父親像の原点になっているので、無意識のうちに娘に対し、威圧的な態度をとっていたのだと思います。それが、話し合いにくい雰囲気を作っていたのだと気付かされました。
娘の幸せを願っていますし、娘の意見をできるだけ尊重しているつもりでしたが、いつの間にか私の価値観や意見を押し付け、しっかり向き合っていなかったのかもしれません。
親として、娘にとっての最善とは何かを悩む日々ですが、娘と話してみて、自分も変わっていく必要があると感じました。そのために、娘と話す機会を増やして、意見に耳を傾けていきながら、本音で話し合えるような関係づくりをしたいと考えています。それが娘を一人の人として尊重することにつながるのだと思います。
(40代、男性)
人権課 電話番号229-3165 ファクス229-3366
2012年10月8日生まれ。4人きょうだいの末っ子。3つ上の姉の影響で三重県無形民俗文化財「唐人踊り」を始め、2週間に一度、養生小学校体育館で練習に励む(仲間を募集中!)。好きなことはソフトボールとゲーム「妖怪ウォッチ」。
12年前の津まつり当日、まつりさんは生まれた。「唐人踊り」のおはやしを聞きながら陣痛を感じたというお母さんは、「祭のように楽しく元気に育ってほしい」と、その名に願いを込めた。
唐人踊りは、江戸時代の朝鮮通信使をまねた郷土芸能。美麗な衣装をまとい、喜怒哀楽を表す面をつけた一団が、かねや太鼓のはやしで踊りながら街を練り歩く。その姿は民衆の胸を高鳴らせ、津まつりの花形として嘉永13(1636)年から受け継がれる。
まつりさんは5歳で唐人踊りを始めた。(まつりさんのコメント)「最初はお面をつけると前が見えず、衣装だけで踊っていました。初めて自分用のお面をもらった時は嬉しかった」(コメント終わり)と、歯が2本、ひげがついたユーモラスな面を手に記憶をたどる。5年生の頃、継続を悩んだ時期もあった。(まつりさんのコメント)「唐人踊りが残るのは、全国3カ所だけ。一度空襲で装束が消失したけれど、分部町唐人踊保存会の皆さんが復元したと聞きました。それほど、津で愛されてきたのだと思う」(コメント終わり)。伝統を継ぐ大人たちの思いに応えたいと、納得できるまでやり切ることを決意した。
唐人踊りを始めて8年。小さい頃は苦戦した、腰を低く落とす独特な演舞も、今では得意なポーズだ。若き担い手による小学生最後の集大成を、今年の津まつりでご覧あれ。