このページは、音声読み上げソフトウェアに対応するため、語句のなかで一部ひらがなを使用しています。
広報津(PDF版)は 広報津(PDF/5.3MB)からご覧いただけます。
裏表紙 |
津・美里・安濃の3つの地域にまたがるはせ山の麓には、5世紀後半から7世紀末にかけて、500基以上の古墳が造られました。これらの古墳は、日本でも屈指の群集墳で、その中の一つである平田古墳群は、安濃町妙法寺から安濃町今徳にまたがる、通称「平田山」と呼ばれる丘陵にあります。
平田古墳群では、昭和59年から61年に、宅地造成に伴う発掘調査が行われました。調査の結果、73基の古墳のほか、土坑墓47基、弥生時代中期の竪穴住居、中世墓が発見され、このうち古墳17基が団地の公園や周辺の山林に現状保存されています。
このとき調査された古墳のうち、12号墳は直径9メートルの円墳で、レンガ状の板石を積み上げた石室があり、南側に入口を設けています。石室の天井石や羨道[せんどう]の石材は残っていませんが、石室は長さ2.1メートル、幅0.7メートルで、大人用のひつぎがちょうど1つ入るぐらいの広さです。石室への入口の前に置かれた石の左隅には、直径13センチメートル、深さ5センチメートルの円形の穴がありますが、これは扉の軸を受ける穴(軸摺穴[じくすりあな])で、片開きの扉があったと考えられています。
古墳の造られた時期は、出土した土器から、7世紀前半から中ごろと考えられており、石材は美里町穴倉付近で産出された砂岩と推定されています。
このような石室は、三重県下では例がありませんが、近辺では奈良県桜井市付近に分布していることから、12号墳の被葬者と奈良盆地南東部地域とのつながりが推測されています。また、扉のある石室は全国的にも非常に珍しいものです。
開発事業に伴う緊急発掘調査では、遺跡や古墳は調査終了後に壊されることが多いのですが、12号墳は石室が珍しく貴重なため、安濃中央総合公園の一角に移築保存されました。12号墳に使われている石材は、現在採掘されていないため、復元に当たっては、天井石などに花こう岩を使用しました。
こうして、平田12号墳は千年以上の時を超え、公園の一角でひっそりと、当時の姿を今に伝えています。
記事の先頭へ | 目次へ |
10ページ目から11ページ目へ |